昭和61年4月11日初版発行
村田書店
ソフトカバー
469ページ
1800円
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徳川家康の家臣で徳川四天王の一人、本多平八郎忠勝の生涯をつづった本。
生涯57度の戦いで一度も傷を負うことはなかった。
少年時代から晩年までの本多忠勝の武勇伝やエピソードを細かく描いている。
1986年に出版。
現在絶版。
「逃げろ家康」の中に「本多忠勝平八郎」が出てくる。
これまであまり知らなかった人物だがとても魅力のある武将で興味を持った。
本多平八郎が主となる読み物を探したが殆ど無く、ようやく本書を見つけた。
絶版だそうである。
著者の後書きにも、調べれば調べる程平八郎に関する資料が少なく、驚いた。。。とある。
本書は、平八郎の事は勿論の事、
桶狭間の戦い、姉川の戦い、三方ケ原の戦い、長篠の戦い、小牧・長久手の戦い、関ヶ原の戦い。
の家康の6大合戦が詳しく書かれ、それにまつわる逸話や登場人物などが書かれている。
この著者、真面目!細かく細かく軍勢の人数、家来の石高、等などが、本当にこま書く細かく
書かれているのだが、私にとっては、そんなこたぁ、どーでもいいのであって、
それより、肝心な家康の嫡男信康と築山殿の死についてはさらりと書かれているだけ。
このあたり、もっと詳しく書いて欲しかったのに><;たった2行。
このことについては、家康は(本物語では)多くを語っていないが、
最後の方で、子を想う親の心境というもの、を、信康を切腹に至らしめた事に関係ある家臣に
チラリチクリと言っているのが面白い。
トンボ斬りの平八郎、と呼ばれ始めた所以も、通り一遍。
気が付いたら、本書の中ではそう呼ばれていた。。。なんだかな~。
それでも平八郎を存分に楽しめたものの、何故か読むに捗らず、かなり時間を要してしまった。
武勇伝
桶狭間合戦の際の大高城兵糧入れが初陣で13歳。
この頃叔父の小原肥前と戦場に出た事があり、小原の討ち獲った敵を「この首もって自分の手柄にしろ」と忠勝に譲ろうとした時、人の力など借りずとも自身で武功をもたらすと豪語して、1561年家康と今川軍とが戦った三河国長沢の合戦で敵陣に飛び込んで見事初の首級を分捕ってきたという。
武田信玄が27000の大軍をもって遠江に侵攻した時、家康は3000の兵を率いて偵察に出たが、たちまち発見され、一言坂に追い詰められた。
忠勝は殿軍を務め、抜群の働きをし、家康本隊を無事に浜松城に撤退させた。
さすがの武田軍も、「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八郎忠勝」と詠み、
家康は「今日の忠勝の働きは八幡大菩薩の御加護によるものであろう」と言い、その武勇に対して讃辞を惜しまなかったという。
小牧・長久手の戦いでは、
わずか500名の軍勢を率いて秀吉自ら率いる8万の大軍と対峙し、
秀吉の家臣、加藤清正・福島正則らが忠勝を討ち取るべしと進言した。
しかし、忠勝の姉川での勇猛ぶりを聞き知っていた秀吉は目に涙を浮かべ
「わざと寡兵で我が大軍に勇を示すのは、我が軍を暫時喰い止めて家康の軍を遠ざけるためであろう。
徳川家を滅ぼした際には彼を生け捕って我が家人にすべきなり」
と忠勝を討ち取ることを禁じた。
関ヶ原の戦後処理の際、
西軍・石田三成らと共に死罪となるべき真田昌幸・幸村父子の助命を、
娘婿の真田信之と共に家康に願い出るが、2度までも真田に苦渋を舐めさせられた家康は
頑としてこれを受け付けないため、 「ならば殿と一戦つかまつる」と啖呵を切り、
家康ばかりか、信之をも唖然とさせたという。
真田父子は死罪を免れ、高野山へ蟄居という異例の処置となった。
桶狭間合戦の際の大高城兵糧入れが初陣で13歳。
この頃叔父の小原肥前と戦場に出た事があり、小原の討ち獲った敵を「この首もって自分の手柄にしろ」と忠勝に譲ろうとした時、人の力など借りずとも自身で武功をもたらすと豪語して、1561年家康と今川軍とが戦った三河国長沢の合戦で敵陣に飛び込んで見事初の首級を分捕ってきたという。
武田信玄が27000の大軍をもって遠江に侵攻した時、家康は3000の兵を率いて偵察に出たが、たちまち発見され、一言坂に追い詰められた。
忠勝は殿軍を務め、抜群の働きをし、家康本隊を無事に浜松城に撤退させた。
さすがの武田軍も、「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八郎忠勝」と詠み、
家康は「今日の忠勝の働きは八幡大菩薩の御加護によるものであろう」と言い、その武勇に対して讃辞を惜しまなかったという。
小牧・長久手の戦いでは、
わずか500名の軍勢を率いて秀吉自ら率いる8万の大軍と対峙し、
秀吉の家臣、加藤清正・福島正則らが忠勝を討ち取るべしと進言した。
しかし、忠勝の姉川での勇猛ぶりを聞き知っていた秀吉は目に涙を浮かべ
「わざと寡兵で我が大軍に勇を示すのは、我が軍を暫時喰い止めて家康の軍を遠ざけるためであろう。
徳川家を滅ぼした際には彼を生け捕って我が家人にすべきなり」
と忠勝を討ち取ることを禁じた。
関ヶ原の戦後処理の際、
西軍・石田三成らと共に死罪となるべき真田昌幸・幸村父子の助命を、
娘婿の真田信之と共に家康に願い出るが、2度までも真田に苦渋を舐めさせられた家康は
頑としてこれを受け付けないため、 「ならば殿と一戦つかまつる」と啖呵を切り、
家康ばかりか、信之をも唖然とさせたという。
真田父子は死罪を免れ、高野山へ蟄居という異例の処置となった。