2013年03月

四国お花見ツアー② 福山城・ 尾道・しまなみ海道

3月25日
赤穂ホテル――赤穂IC――福山東IC――福山駅前――福山城――尾道IC――
千光寺・公園――向島(しまなみ海道に入る)――因島北IC――水軍城――昼食
――因島北IC――生口島北IC――瀬戸田シトラスパーク――耕三寺――洲江港
フェリー――おこぎ港――岩城島――積善山――  三洋クラブ菰隠温泉 泊
 
     【福山城】 残念ながら休館日でした (→o←)
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     福山駅の前にあります。  「休館日」の札を見てボーゼン↑とする人(>▽<)
 
譜代大名・水野勝成によって元和8年(1622)に築城。
伏見櫓、筋鉄御門は京都伏見城から移されたもので重要文化財。
5層の天守閣は戦災で焼失したが再建され、内部は郷土博物館として歴代藩主の遺品
草戸千軒町遺跡からの出土品が展示されている。
 
水野勝成(1564-1651)安土桃山・江戸初期の大名。
関ケ原の戦、大坂夏の陣で数々の功を挙げ、元和5年、福山に移封された。福山藩祖
 
             お城で見かけた野鳥 「シメ」 という名らしい。
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     【千光寺公園】 尾道のシンボルになっており、桜の名所100選にも入っている。
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      この枝垂れ桜が咲いていただけで、園内の桜の開化には1週間早かった
 
 
入口から一緒だった係の人が、山頂近くの広場まで一緒に歩きながら色々説明してくれ、
 
「満開までまだ10日早かったですね~、せっかく来てくれたのに、満開の桜お見せできなくて。。。」
と残念がっていた。  植木職人さんなのかな?
最初は我々の後ろを歩いていたんだけど、スーっと隣に並んで自然と話しかけてきてくれた。
 
その方と広場で別れて展望台に行く途中、
ソフトクリームを舐めながら歩いてきた若者の集団の中の一人の男の子、なんだか奇異?と思ったら
                                            若者と目が有ってしまった。
何だか自意識過剰な奴、と思ったら
             故・竹下登(元首相)のお孫さん、とか云う芸能人だってサ。(近くの若い娘談。)
 
撮影が有ったらしくそれらしき集団が、機材を担いでゾロゾロ・・・
                       その中に、もう一人、見覚えのある顔が居たが名前がわからん
   
ゲーノー人って視線が普通の人とは違うのよね、視線がチョット変、目が泳いでいる (苦笑
 
 
  公園から千光寺へ行く途中には「鼓岩」と呼ばれる岩がり、
  岩の一部分を石で叩くと「ポンポン」と鼓のような音がすることから「ポンポン岩」と呼ばれている。
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   【千光寺山】は岩だらけ巨岩奇岩だらけ。  すぐ横にはケーブルが通っている。イメージ 6
 
 
      千光寺裏には展望台が有り、そこからさらに岩を登れる「鎖場」がある
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    千光寺の鎮守は熊野権現と石鎚蔵王権現。
    岩には 烏天狗が彫られている。烏天狗は 熊野権現の神使いといわれている。
 
  千光寺からは尾道市内が一望できるとともに、これから行く「しまなみ海道」も見えるし、
  瀬戸内海の島々も眺められ、天気の良い日には四国連山をも遠望することが出来る
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  山全体が千光寺公園のようになっていて、ここでは紹介していないが、見所いっぱいだ
 
  急な坂や階段が多く、結構体力がいるので、時間をかけてゆっくり回りたい。
 
  いよいよ【しまなみ海道】に入るが、
 
  前回行った時は本州と四国を結ぶ橋という橋をすべて渡るのが目的だったので
 
   殆どの島は素通りしたが、今回はゆっくり島めぐりをしたい。
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            「向島」は通過し、 【因島大橋】を渡って因島1周をした。
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       因島、と言えば【水軍城】  昭和58年に築城された城型資料館。
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南北朝時代から室町時代に活躍した村上水軍の武具、遺品、古文書等歴史資料が展示されている
 
正面下から見上げるとかなり急階段を上って行く事になる
 
千光寺公園でスタミナ消耗した後でも有り、下から眺めるだけにした。
 
 
    街中の食堂で昼食。美味しくてボリュームもあり、驚くほど安い 【穴子丼】が食べられた。
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  生口橋を渡り、生口島一周。 一昨日閉校式だったんだ! 校庭には日の丸がはためいてた。
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  【瀬戸田シトラス(柑橘)パーク】  
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 前は海、小高い丘にある「柑橘類」のテーマパークで、500品種の柑橘類が収集展示されている
 数十種類の柑橘類が丘いっぱいに植わっていおり、色々な国のテーマ花木の庭園が有り
 ただただ広く、訳のわからない建物が点在しているが、使われているのは、ほんの一角のよう。
 
   人っ子ひとり居ない広大な庭には香りのよい柑橘類が鈴なりに実っており野鳥も多い。
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    綺麗に中身だけくりぬくように食べられたみかん 鳥が口をあけてるようにも見える  (゚ー゚*)
 
 
 
   【耕三寺】   ド派手なお寺。ここは拝観料ではなくて「入館料」と書いて有る。
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  このお堂が一番地味。 
  高い入館料を払ってから、以前来た事が有った事を思い出した。(`ε´)チッ!
 
ともかく、なんだって、キンキラキンで煌びやか、ド派手、凝りに凝ってる・・・
そういう言葉をいくら言っても足りないくらいの極彩色の凝った建物が点在する
 
初代住職「耕三寺耕三」氏が母親の菩提寺として、昭和11年より30年余りの歳月をかけて建立した
浄土真宗本願寺派の寺院。といはいうが、「お寺」、という感じはまったくしない。
 
 
園内には未来の丘、とか洞窟の中をめぐる「地獄めぐり」もあり、
中に入ると、等活地獄 (殺生の罪)  黒縄地獄 (殺生+盗み) 衆合地獄(邪淫)
叫喚地獄(殺生+盗み+邪淫+飲酒)などなどの説明と壁に彫られて色つけされた地獄絵がいっぱい!
 
近くの3人連れの主婦らしき人達は「あら!私、飲酒地獄に落ちるわ~♪」と楽しげ (苦笑
 
しかし、決して気持ちの良いものではない。 これが普通のお寺ならわかるけど
極彩色の、何を主張したいのかさっぱり分からない様な場所に有ると、なんだか違和感が有る。
 
入場料が1200円、と云うのも、京都の格調高い寺院よりも遥かにお高い。
 
好みの寺院ではないし、時間がもったいないのでササーっとなでるように見て出てきてしまったが
 
山門は京都御所・紫宸殿のコピー。   中門は法隆寺の西院伽藍のコピー
 
入口は法隆寺の山門を模した四間二戸の重層門。
      (通常、山門の間数は奇数であり、偶数の門というのはめったにないそうだ。)
 
鐘楼と、鼓楼は奈良新薬師寺の鐘楼のコピー。  五重の塔は室生寺の五重塔のコピー、 
 
宝物殿は四天王寺の金堂のコピー。  孝養門は陽明門のコピーで、
      (なんと文部省からオリジナルの図面を取り寄せて10年がかりで完成させたものだとか。)
 
左右の阿弥陀堂は、日野法界寺の阿弥陀堂のコピーらしいし、 多宝塔は、石山寺多宝塔のコピー
 
本堂は宇治平等院のコピー。。。。。勿論本物よりド派手。金ぴか。
 
「未来の丘」 にはイタリアから運んだというバカでかい大理石を使ったモニュメントがあり、
 
そのほか10m?もっとあるかと思うような観音像(もちろん極彩色)も何体か有ったし、
 
お城を模した、迎賓館の中身は金張りらしい。
 
 
国の文化財に指定されている。っていうけど・・・・  (ー`´ー)ウーン
 
近くに「耕三寺博物館」があり、
 
そこには「耕三寺耕三」さんが、蒐集した「潮聲閣コレクション」の美術品を展示している。という。
 
この「耕三寺耕三さん」って一体何者?  (今は時間が無いが、そのうち調べてみよう!)
 
 
(o`O´)!すっかり耕三寺にスペースを喰われてしまった!(o`O´)σ先へ行こう!
 
   【洲江港】 からフェリーに乗る事、5分。
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             【おこぎ港】 から 【岩城島】に上陸する。
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     岩城島はレモンの生産が盛んで普通の家の庭先にもレモンの木が植えて有る。
 
                   目指すのは【積善山】
 
     3千本のソメイヨシやオオシマ、ヤマザクラが満開になり目を楽しませてくれる。そうで、
 
           桜の木は山道沿いに林立し、山を抱くようにぐるりと咲くさまが特長。
 
           まるで天女の羽衣のような花の帯が続く。
 
           3月中旬にはミモザ、4月中旬にはヤマツツジも見られる。。。。。。。。
 
 これは行ってみなきゃね! d(゚ー゚*) と思って登り口まで行ってみたものの、やけに道が狭い
 
 引き返して近くのお店の人に聞いてみた。  σ(・"・) 「車で山頂まで行けますか?」
 
               「あぁいけるよ」    σ(・"・) 「道が狭いけど車すれ違える?」
 
     お店の人、笑って「誰も行きゃぁしないから大丈夫!」。。。。って  
 
               (゚Д゚≡゚Д゚)えっ!だって桜で春は賑わうって・・・・
 
 
     まだ1週間早いそうだ。   (_ _*)シュン
 
    車のナンバー見て、「えっ!横浜から来たの!?わざわざ?!」
 
    σ(・"・) 「ハイ、色々寄り道しながら、積善山の三千本桜 をひと目見たくってね(^▽^*) 」
 
人のよさそうな店主の奥さんは、傍で商品の玉ねぎを段ボールから出しながらニコニコ・・
 
その店主、 「いいなぁ~俺らと同じくらい?(歳)か~、どうじゃらこうじゃら」。。。
 
朗らかで親切な御夫婦だった。  「奥さん美人だったナ~」 と夫がえらく感心してた。
 
サテ山に上って行きはしたものの、道、細い、ガードレールもないところが多いし、崖崩れ様な所も、
 
           しかし、桜はまだ咲いてないけど、ミモザの群生があって見事!
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  蕾を付けた桜が山道沿い頂上まで延々と続く。 これが咲いたらさぞや見事だろうなぁと思う
 
  何も無い島が、この桜の時期だけ車が多くなり、交通規制がかかると聞いた。
 
  何とも心細く頂上に到着。 ハイおっしゃる通り他の車には一台も会わなかったし、絶景だった。
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          島をグルリとドライブした後、少し早いけど宿泊先のホテルへ
 
 
 
           宿の前の海では、うず潮が見られ、海に段差が有るのもわかる
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  ここの前の海で渦潮が見られると云う事は、
                      島と島の間が狭く、潮流が鳴門海峡と似るているのだと思う。           
                                    
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                   菰隠温泉 三洋クラブ 泊
 
温泉なんだけど、道路を渡って前の建物に行かにゃならんし、露天風呂は予約制で1日人組のみ、
 
とか、食堂が前後がすべてガラス張り、前は海だから眺望はいいんだけど寒い!
 
席について、思わず 「う~さぶ><!」 と言ったら
 
係のお姉さん、「生モノが出してあるので暖房は付けてませんでした」って、言って
 
エアコンスイッチを入れ、電気ストーブをにつけ、足元に置いてくれた。  ありがと(´∀`)
 
でもネェ 時間はキチンと決まっており、時間通りに行ったんだけどネ、
 
テーブルには前菜と刺身が用意されていた。 そんなに前から出してあったのかぃな(苦笑
 
しかし、お料理は美味しく、昨日同様で手作り感いっぱい、揚げ物や焼き物は顔を見てから
 
火を通したらしく熱々のものが出てきたし、係のお姉さんも親切で美人!
 
夫は美人を見ると機嫌が良くなる。  (だからいつもご機嫌なのかな? ナンチャって  (*^艸^*)  )
 
 
     本日の走行距離210km           明日は今治に出て松山に行きます。イメージ 21

四国お花見ツアー① 三方ケ原・姫路城

3月24日(日)
自宅――東名横浜青葉IC――東名浜松IC――浜松市内――三方ケ原古戦場跡?
――浜松IC――東名――名神――養老SA(昼食)――山陽道――姫路IC――
姫路城――山陽道――赤穂IC――  赤穂パークホテル泊 
 
この前 「関ヶ原」と「長篠」 に行ったので、やっぱり「三方ケ原古戦場」も抑えとかにゃ!

「三方ケ原古戦場」は、前から行きたかったところ。  しかし、調べても場所がはっきりしない。
 
 
【犀ケ崖資料館】 ちょうど開館したところだったので係の方に色々聞いてみた。
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    ここは、「資料館」にはなっているものの、「遠州大念仏」(郷土芸能らしい)関係の展示物が
    殆どで、「三方ケ原古戦場」については数枚のパンフレットくらいしか無い。
    どうも、この資料館は三方ケ原の戦いで亡くなった人の霊を祀った「お堂」が主らしい。
 
   係の方の云う事には
   「大体が、三方ケ原の戦いがどこで有ったのかも定かでは無く、多分この近辺だろう。
    という程度の不確かな話です。」 、、、と、確かそんな事を言っていた(と思った^^;)
   この係の方、かなり「三方が原古戦場」に関しては眉唾的な言い方で何か投げやりに感じた。
 
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                   しかし、家康が唯一負けた戦で有名
        家康31歳、 家康軍11,000人。      信玄52歳、 武田軍25,000人
 
武田軍の突然の投石攻撃で戦の火ぶたは降りた。
                        徳川軍はこの挑発行為に乗せられ突進してしまった。
 
怒涛のような武田軍の攻めに徳川軍は総崩れとなり、退却の途中、討ち死にしていった夏目吉信、
本多忠真、など多くの武将たちの犠牲によって家康は浜松城に逃げ帰る事が出来た。
 
        本多忠真は徳川四天王の一人、本多忠勝の叔父にあたる。
        徳川軍の撤退に際し、しんがり隊を買って出た本多忠勝隊にあって、
        武田勢の中に刀一本で切り込み、この地で討ち死にした。39歳だった。
     
                 【「本多忠真」の顕彰碑】 
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   近くには「夏目次郎佐衛門吉信の碑」も有るらしく、刻まれた文字は家康の書いたものだとか。
   
   夏目吉信は三河一向一揆の時に捕らわれ、処刑されるところを家康の寛大な処置で助けられ
   その恩を感じ、三方ケ原合戦の際、「ここが自分の死に場所」と、犀ケ崖付近で武田勢の前に
   立ちはだかり討ち死にした。
 
          【犀ケ崖】
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       徳川軍は崖に布の端をかけ、この崖に武田軍を追い落とした。という伝説が有る
      私的には「布をかけて・・・」と云うのはチト無理が有る気がするけどなぁ(苦笑
       このほかの説もあるようです。      下をのぞくと・・・・
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  昔はもっと深かったらしいが、近来段々浅くなり今は、深さ13m、長116m、幅30m前後。
  当時の崖の深さは60m位だそう。
  
 
 
      大阪を通ると【太陽の塔】が見えた。大阪万博から何年??  近くで見た事なし。
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    姫路城を目指していたら、、、【お通公園】が有りました。  車の中からパチリ!
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     調べてみたら、姫路市花田町の新小川橋の袂にあり、
  武蔵が武者修行に出る前に、お通と待ち合わせをしておきながら彼女を置き去りにした所。
  だそうです。。。。しかし、よく観光地作るわよね~^^;お通さんは架空の人物なのにね。
 
 
  見えてきました!只今平成の大修理中の【姫路城】工事中を見学できるそうなんですけどね・・・
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【菱の門】
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     「国宝姫路城」 は  やっぱり品が有り、美しい
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        最近、「お城」と云うと、武士装束をした人達の撮影サービスが多い。
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 西の丸  【百間廊下】
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  西の丸の中書院に当たる場所で、御殿を囲むように造られた300mもの廊下に並ぶ部屋には、
  千姫に仕えた侍女たちが住んだ。
 
                     それにしても長~~ぃ廊下だ
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          千姫は毎朝この廊下から男山を拝んでいたと伝えられている。
 
 
                      【化粧櫓】
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    畳敷き。 西の丸長局より男山を拝んだ千姫が、この櫓を休息所としたので、
この櫓を化 粧の間、または化粧櫓と呼んでいた。
 
 
       【りの一渡櫓】 初公開
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     「姫路城大天守 修理見学施設」のオープンに伴い、姫路城築城以来未公開の
     「リの一渡櫓」の内部を、姫路城大天守保存修理工事期間中に限り、一般に公開している。
 
   何が有るかと云うと、、、、鬼瓦・鯱(しゃち)・瓦・漆喰などの実物の展示や、甲冑が有る。イメージ 16
 私たちが、ただ眺めていたら、係の方、「写真撮っていいですよ」。 
 
σ(・"・)「はい、ありがとうございます。」と言ってあまり興味のあるものが無かったのでカメラを向けなかった
 
「どうぞ、どんどん撮ってかまいませんから、ここは初公開でいつもは見られない所なんですよ」
 
折角だから、2、3枚パチリ!
 
 
 
 お城の修理見学は、エレベーターが50分待ち!   待つのも並ぶのも大嫌い、残念だけど止め。
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 大天守は1964年(昭和39年)に完了した解体復元工事から45年が過ぎ、
漆喰壁をはじめ上層部の軒やひさしに傷みや汚れが激しくなってきたため、本格的な修理を行うもの。
2009年10月から大規模な改修工事「平成 の大修理」が行われおり、
工事期間は2014年までの、約5年。事業費は 約28億円。
 
 
     お城の帰りに、かわいい車を見た。  
     ベビーカーの子、この車が気になって仕方ないらしい(^ー^* )
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 本日の泊まりは【赤穂パークホテル】温泉が有る。   イメージ 19
 
 
姫路城の桜はまだ蕾だった。
 
見たかったお城の工事風景も
見られなかったけど、
 
ホテルにも早く入れ、
ゆったりとした気持ちで
旅の初日は終わったので
良かったかな、とも思う。
 
ホテルには温泉大浴場も有り
食事も手作り感が有って
熱いものは熱々で出る。
 
最近の宿に有りがちな
数出せば・・・的なところが無く
作る人の「心」を感じた。
 
 
                           走行距離 666km 
     明日はしまなみ海道ドライブ。 四国へ行きます。    イメージ 20

お彼岸 桜

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             都会の墓地、線香の煙、手向けられた白菊、
                     彼岸に淡き桜花
  
お彼岸の 「お中日」、お墓参りに行って来た。
 
いつもは、「彼岸の入り」か、その前に墓参し、茅ヶ崎、横浜、新宿、と墓参ツアーになる
 
今回、初めて新宿のお墓には、お中日に行った。 
 
彼岸の「入りの日」と、「お中日」とはこんなにも様子が違う事に驚き、
 
墓地の華やかな日って有るんだなぁ~。と思った。
 
 
新宿のお墓は、古いながらも、どこもかしこも掃除が行き届き、自然で、渋く、大好きな寺だった。
 
代替わりし、華やかな寺に様変わりした。
 
正面入り口、山門の前には牡丹が、枝垂れ蝋梅が、木瓜が、整然と植えられ四季折々に咲く
 
山門を入ると、今の時期は枝垂れ桜が見事だ。
 
墓の方に歩を進めようとすると、枝垂れ桜が本堂のガラスに映る。
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 さすがプロの仕事は大したもんだ~(^-^)  
 
 この時を逃しては、とばかり、計算し尽くされた「美」を、
                            墓参帰りの人に説明する植木さん、誇らしげ。
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          目線によって、山門が額縁となって見えるように設計したとか・・・
 
 確かに立派、美しい。でも、、、以前の質素で、渋かったこのお寺さんも良かったんだけどネ d(゚ー゚*) 
 
                   古いお寺なので桜の古木もある
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 お墓もゆったりとして、しきみ(お寺によくある常緑樹)もあちこちに有って、
 
 花を持って行かれなかった時は
 
 父母の眠る墓の前の、大きな「しきみの」小枝を失敬して手向けたものなんだけど。。。。
 
 今は新しいお墓が増え、その木は消えてしまった。
 
 
或る時、夕方に行って、お線香買うと、寺男さんが桶を持ち、お墓まで案内してくれた
 
その時、彼が余りにも大胆に「しきみの」枝を折ったので驚いた
 
 「この木はそのために植えて有るのだから、折って使ってくれていいんだよ」、教えてくれた
 
 その寺男さん、母の事をよく知っていて、想い出話しなどしてくれたんだけど、
 
 その家族も高齢の為か、居なくなってしまい代変わりしてしまった。
 
                初めて見た 「しきみ」の花。       かすかに香る。
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          兄が逝って四年、 あと追うように母が逝ったのが、49日めの3月20
 
          その年の春のお彼岸のお中日、桜はまだ咲いていなかった。
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2013年3月20日 S子姉の事・彼岸中日 皆で圓照寺墓参

長姉夫の発案で皆でお墓参りをしようと云う事になった。
 
出席者は 長姉夫婦、義姉さん(亡き兄の連れ合い)、次姉、我々夫婦の6人。
我々以外は全員電車。
 
花を買って行く約束だったので前日に仕入れ(1500円程度)お墓に行ってみると
義姉さんが来ていた 

水を持ってくるでも無く、ただお墓に向かって立っていた。 かなり耳が遠い
 
次に次姉到着 いつもと変わらずにこやか

ごんちゃんの墓の花を徳ちゃんの墓に少し失敬した(苦笑
 
姉が最後  長姉夫Sさんはお寺さんにご挨拶に行っているという さすがである

それを聞いても義姉さんは何も云わない
 
花も長姉がお線香をいっぱい持ってきたが、それに対しても何もなかった
 
びっくりしたのは、義姉が
 「息子もこっちにはもう来ないし、このお墓入らなくなる。
   支払いも無駄なので、私が死んだらいらないわねぇ。娘もここには入らないし。」 
           自分の夫が眠る墓である
 
姉たちは聞き流していた

「お墓は無縁さんになれば、で自然淘汰するから。。。」と言っておいたが聞こえたのかどうか?

東中野駅の近くの中華料理屋でランチ。 @千円。次姉と夫がかいがいしく動く

私と長姉は、奥に入り動けない。義姉さんは全く動かず我関せず

 
その義姉が、
「お施餓鬼」とは辞書で調べたら「餓鬼道に堕ちた衆生のために食べ物を布施し」、、とあり
主人は身内もいるのだから 施餓鬼 なんて言わないでほしい!」
                                          と3姉に云ったらしい。
                                          ( 3姉=S子姉 この日は欠席)
 
だから、兄が生前
 「お施餓鬼なんて行かなくていい。 と言っていたから来たくなかったけど、
                            S子さんは 行きたい と云ったので仕方なく来た」 、という。
今まで義姉さんの事はあまり悪い印象は無く、ずっと穏やかな人、と思っていたが
                             この日は彼女の無神経ぶりが目についてならなかった。
 
 
 
其の後、隣の喫茶に行き、お茶をする。   ここで最後にショックな話を聞く。
 
長姉夫に促され、長姉が話しにくそうに話し始めたことによれば、
 
    S子姉(3姉)が娘のマンションで手首を切って自殺未遂を図ったらしい

幸い発見が早く大事には至らなかったが医者は後遺症が残るかも知れない。と言っていたという。


どの程度だったのかはよく分からない、後遺症が残る。という事はかなり重症だと思う。

でも、娘が居るときにやった、という事はどこかで助かりたかったんだろうなぁ。 とも思う。

 
その時の 「遺書」 には、

「お母さんとお兄ちゃんが死んだのも今回の事も、長姉さんのせいだ」 と書いて有ったらしい。

 その間の事情は私には全くわからないけど、そりゃあんまりだよね。
 

でもねぇ・・・

全体を見ていた私にはその根っこがわかるような気がする

   長姉さんは面倒見が良くて優しいんだけど、
                                突き詰めて考えると、それが誰の為か?
         
    そういう事をもう少し考えてみたらどうかとも思う。

 
しかし、今回の事に関してはS子姉の問題であり、完全な被害妄想、病気だと思う。
 
長姉夫の弟さんも自殺だったという。初耳だった。

義兄は一度やった者はまた必ずやるから気をつけないと。と心配していた。

 
S子姉の娘が父親(S子夫)に、 「絶対誰にも言うな」 と口止めし、

もし父親が口外したらば自分と両親の間がダメになる、絶対口外しないでほしい」

と云われたものの、長姉夫に言わせれば 「黙っている訳にいかない」。。。


 
なんでこういう事になるのかなぁ~?

どこで姉妹の間がこんがらかっちゃんたんだろ??



  彼女(S子姉) は、、信頼していた兄に死なれ、
       
 母の看病が生きがいだったのにその母に死なれ、 今は 抜け殻状態なのだろう

 夫婦間はどうだったのだろう?親子間は?

 私が知っているS子姉は明るくて生真面目 でもちょっと神経質。 
 
                     
 
 可哀そうなS子姉ちゃん。
 
「もうこんなことしないからね。」と笑って娘さんと旦那に云ったというが・・・・
 
S子姉ちゃん、せっかく ここまで生きてきたのに・・・・

今まで 努力してきたことや 我慢してきたこと、家族への愛情とか・・・

それらのものが、み~~~んな 水の泡になっちゃうよ!
 
このさい、助かった命は、「おまけ」だと思って、のびやかに、楽に生きてほしい。

                  再生を心より願う。



                              って他人事ではないのよね。明日は我が身。

(466)【文人悪食】嵐山光三郎


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平成12年9月1日発行
新潮社
文庫本
562ページ(539P)
743円
 
 

図書館で借りる。
 
 
 
 
 嵐山光三郎。 昔見た印象では、今で言う「コメンテーターテ」のような立場で
テレビに出ていた軽めの人。と言う記憶しかない。
 
三十七人の著名な文人の食にまつわる話とともに、彼らの著作や生涯についても紹介され、
切り口が鋭いので、非常に小気味良く、思ったより数倍面白い。
 
【夏目漱石】  ビスケット先生
ビスケットも好きだったが、落花生を砂糖でかためた駄菓子が大好物だった。
それまでも悪かった胃腸は更に悪化。
知人の結婚式にしぶしぶ出席したが食卓に南京豆が出ていた。
夫人は「悪いものが出ている。そばにいたら止めるのに」と心配した。
案の定彼は食べた。  あくる日から体調を崩し、寝付き、20日経たずに亡くなった。
臨終の床で、ふと目を開けた漱石は「何か食いたい」という。
この期に及んで未だ満たし得ぬ食欲への切実な願望だった。
ひと匙の葡萄酒に「うまい」最後の言葉だった。
 
【森鴎外】  饅頭茶漬け
饅頭をご飯の上に割って載せ、お茶をかけて食べた。というのは有名。
役所勤めの当時の弁当は、母親の作る2個の握り飯と決まっていた。
同僚は「よほどの倹約家だ」と思っていたが、よく見たら上等の握り飯だった。と述懐している。
彼の葬儀の時、坪内逍遥が雑誌に追悼を書いているが、その中で性力絶倫だった。と述べていた。
そういえば、「ヰタ・セクスアリス」なんて発表してたっけね。
 
【幸田露伴】 牛タンの塩ゆで
露伴は食に関してはかなりうるさかったようだが、飽食というのとは全く違う。
  「鮭買うたらば、氷頭を取れ、大根買わば干葉を造れとは、
   男の口からは言いにくけれど、鴨をこなしてたたきつくらず、
   海鼠(ナマコ)つくりて わたを捨つるは、女の手からは大たばすぎたり」

 食材のこなし方に詳しい。品がすこぶる良い。
明治40年に書いた「給食会社」は現在のファーストフードの店の予見である。
朝、昼、晩の三度の炊事の面倒さはかなりの労働の損失になる。
そこで、食事の供給会社が出来て清潔で安い食事を提供してくれれば非常に便利である。
 
露伴が亡くなる時。娘文にむかって「じゃ、おれはもう死んじゃうよ」と言って逝った。
 
【正岡子規】 自己を攻撃する食欲。
彼はどの人の書いたものを読んでもあまり評判は芳しくない。
ここでも天才特有の傲慢さがあり、他人がおごるのは当然だという無頓着さがあった。
漱石の下宿に居候した時に、鰻の蒲焼きを取り寄せ、ぴちゃぴちゃと音をさせて食う
相談もなく自分で勝手に命じて(取り寄せる事?)食う。
帰る時、「君、払ってくれたまへ」と言って済まして帰ってゆく。
 
子規が死の寸前まで書きとめた「仰臥漫録」というのがあって
狂気としか言いようのない食事献立がめんめんとつづられている。
(一度に食べる量は信じられないほど大量だった。と他の本でも読んだ)
カリエスのため苦しみもだえて亡くなった35歳直前だった。
 
【島崎藤村】  萎びた林檎
著者は藤村に対してかなり辛辣である。 藤村は粗食淫乱の人である。
「貧しい食事に豊かな性欲」を貫いた。
藤村には旧家島崎家に沈殿した血の頽廃がある。
父は近親相姦。母は姦通という忌わしい事実があった。
山国の閉鎖的な生活の中で、血族結婚や乱倫を背景として育った。
40歳になった藤村が19歳の姪のこま子と肉体関係におちいり、こま子を妊娠させた。
こま子は兄の娘で藤村の家事手伝いに来ていた。
藤村は悩んだ末「懺悔による罪の浄化と新生」と称し、告白小説「新生」を朝日新聞に連載した。
事件から6年後の事であるが、この間藤村はフランスへ逃げていた。
 
其の経験を小説にして自分を救済し、「死から再生の記録」を綴った。
作家として、後にペンクラブ会長にまで就任する。 芥川が「老獪なる偽善者」と思った所以である。

恩人の木村熊二の私生活を小説「旧主人」で暴きだした。
教師時代の同僚の丸山晩霞をモデルにして小説「水彩画家」を書いたが
そこで展開された男女の愛憎三各関係は藤村自身の体験で
傷つけられた晩霞は抗議文を「中央公論」に書いて藤村と絶交した。
藤村は恩人の秘密を勝手に暴き、一族の秘密も暴きたてた。
暴くものがなくなると自ら事件を起こしてそれを告白し自己を暴く手法をとった。
藤村の事は、白秋が嫌い、吉井勇が嫌い、荷風が嫌い、谷崎が嫌い、鏡花が嫌い、
志賀直哉が嫌っていた。
  
【 永井荷風】 最後に吐いた飯つぶ
何かの本で読んだのだが、女性作家が(萩原葉子?)荷風の晩年の生きざまや死にざまを
「生涯独身で死んだ時も孤独で憐れな死にかただった、ああいうのは嫌だ」のような事を書いていた。
 
てっきり、永井荷風は貧乏作家で生きて死んだのかと思った。
それがこれを読んで、とんでもない間違いだった事がわかった。
 
父親は高級官僚で、のちに日本郵船の上海支店長だったためハイカラだった。
17歳の時に吉原遊びをしている、既に放蕩の目が出始めている。
 
贅沢三昧なだけに荷風の舌は若くして奢っていた。
私生活では芸者を見受けしては捨てる放蕩三昧で、
女と別れるときは弁護士を通じて手切れ金を払うのが荷風の流儀で
「女と出来るときに別れるときの金を考えている」と語っている。
  
東京の日本料理屋も西洋料理屋も行き尽くし、少しでも味が落ちるとパッタリと行かなくなる。
贅沢をしつくした荷風がたどり着いたのは、どこにでもある、ごく普通の洋食や(食堂)だった。
 
フランスから帰国して一躍人気作家となり、多額の印税が入り、
女を連れて鋼球料理屋をまわっているその時間の中で荷風は晩年の孤独を見定めていたのだろうか。
 
やりたい事を誰のも文句を言わせずにやりぬいてきた荷風である。
 
市川のボロ屋で、たった独り、だれにも看取られずに安いカツ丼の飯つぶを吐いて死んだ。
 
自宅に有った写真を見ると、畳の上のはじかに、牛肉大和煮や、NJBのコーヒー缶、宝ミリン、
ウエルチのオレンジジュースが雑然と転がっている。
この部屋の中で七輪を渋うちわではたき、米を炊き、鍋を煮る。
淫楽の限りをつくしてたどりついた最後の一室がこの部屋だった。
部屋に散らばっている缶詰や嗜好品は、当時手に入らない高級品である。
 
昭和34年4月30日。吐血して死んでいる荷風を通いの手伝いが発見した。
荷風79歳。多額の預金が残されていた。
 
【斎藤茂吉】 もの食う歌人
茂吉は鰻が好きだった。
息子茂太と茂太夫人の縁談がまとまった時、両家の顔合わせが築地の竹葉亭であり、
結婚前の茂太夫人が緊張のあまり食べ残した鰻を茂吉は「それを頂戴」と言って食べてしまった。
 
又或る時会食で鯉の料理が出た。茂吉は隣の膳の鯉をしげしげと眺めてから、
その鯉を自分の徒変えてくださいと言った。隣の鯉の方が大きく見えたためで、
隣の人は承知して鯉をよこした。
取り替えてみると先ほどまで自分の前に有った鯉の方が大きく見えだし、
茂吉は、また元の鯉を戻してもらった。。。。こんな話が幾らでもあるようだ。
 
 
は血顔合わせの席で、息子の茂太の許嫁の鰻を食べてしまった茂吉は、
その後の茂吉の嫁がかいがいしく働くのに感激し、
   「このゆふべ 嫁がかひがひしくわがために 肉の数片を煮込みくれたり」と詠んでいる
 
茂吉は、「食べ物はそのときあるものでいい」と言いながらも、大した食いしん坊であった。
 
啄木のようにひねくれず、牧水のように飲みすぎず、子規のように威張らず、晶子のように溺れず、
ひたすら生への骨太の愛惜に満ちている。
 
茂吉が51歳の時、妻てる子の不行跡を新聞が報じ茂吉は不慮の「精神的障害」をうけ、
以後、事実上の夫婦ではなくなる。茂吉51歳の時である。
茂吉は婿養子として斎藤家に入った。てる子は家付き娘であり自由気ままな性格だった
彼女は晩年独りで世界を飛び歩き、世間を驚かせたが、
てる子の、茂吉存命中のふるまいは、並のわがままさではなかったといい、
茂吉は彼女のまともな料理はほとんど食べた事が無かったという。
 
       「ゆふぐれし机のまへにひとり居て鰻を食ふはたのしかりけり」茂吉。
 

【壇一雄】  百味真髄

「火宅の人」を読んで壇一雄が嫌いになった。
「リツ子・その愛」、「リツ子・その死」を読んで壇一雄がたまらなく好きになった。
 
壇は人並み外れた快男児である事は彼を知る人ならみんな知っていた。
彼は人と人を友人にする達人であって、
壇と付き合う人は皆仲良くなってしまう不思議な触媒力が有った。
 
壇一雄の母は彼が9歳の時に、若い愛人を作り出て行った。その後何人かの男を遍歴した。
「幼少から私は母を自分の部外者としてみなしていた。」と云う。
母に捨てられたが、自分の意識でも母を捨てた。
彼を頭に小学生にも入らぬ3人の妹がいた。 彼の料理作りはこうして始まった。
「壇流クッキング」は今なおロングセラーで有るという。
また、ホテルで署名する時は「壇ふみの父」と書き込み、フロントは「嘘でしょう」と信用しなかった。
 
生まれ育った家庭環境は壇より、太宰治や、坂口安吾の方がはるかにいい。
おさなくして母親に捨てられた太宰の方がグレて暴れていいはずだ。にもかかわらず
この二人の常識を逸する狂気を抑えるのにひたすら尽くした。
睡眠薬などの中毒で暴れまわる安吾を一晩中押さえつけた。
太宰のわがままに笑って付き合った。
不良性放浪性の面では壇は太宰や安吾にひけを取らずむしろ上回っていた。
だからこそ二人を押さえつける事が出来たのである。
 
安吾はヒロポンとアドルムに屈し、太宰は情死した。
三島由紀夫は、壇一雄に還流しているものは、
「或る生理的な痛みのようなものである。この痛みは思想を蝕み、理性を蝕む。
 その悲哀は衝撃的であり、神経系統を押し揺るがす」 と指摘している。
 
壇一雄は薬物の誘惑の一歩手前で踏みとどまり、また、情死の一歩手前で踏みとどまろうとした。
それが「火宅の人」で有ったのではないか。と著者はいう。
 
作家の人物像を書いた書物を読んでも壇一雄を悪く云う人はいない。
口を揃えてて云うのは「快男児」。
 
【坂口安吾】  安吾が工夫せるオジヤ
安吾は薬物中毒だった。睡眠薬のアドルムを一度に50錠以上飲んだ。
 
安吾はアドルムを飲むと人が変わりバッドを振りかざして暴れだし手がつけられなかった。
覚せい剤も飲んだ。ヒロポンも打った。
 
薬が切れると狂暴になり、真冬でも素裸になって外へ飛び出した。口はもつれて、よくしゃべれない。
ひどい時は二階の窓から飛び降りる、と言いだす。
三千代は布団を階下へ運んで、安吾が怪我をするのを防いだ。
そのたこの手の武勇伝には事欠かない。
 
 
壇一雄宅に寄宿した時に、ライスカレーを100人前注文する事件が有った。
睡眠薬を飲んだ安吾はカレーを100人前注文した。
あとからあとから運び込まれてきて、縁側にライスカレーがずらりと並び、
壇は黙々とライスカレーを食べていたという。
 
安吾は健啖家だった。人に贅沢な料理をふるまい飽食に、げんなりしているとオジヤが出てくる。
安吾は「和が工夫しせるオジヤ」と題してエッセイを書くほどこだわりが有った。
べらぼうに手間暇がかかる代物である。
 
安吾は「困った時は友達に頼むに限る」と書いている。
中毒症になると孤独感に襲われて死にたくなる。 三千代は壇と石川淳に電報を打った。
「随分頼りない人に電報を打ったものだが、これがちゃんと来てくれて、壇君は10日もかかりきって
 せっせと始末をしてくれたのだから、奇々怪々であるが、事実は曲げられない。
 平常はこの人たちほど頼りにならない人は居ない。
 壇一雄は、私と約束をして果たした事は一度もない。
 本当に相手が困った時だけ寝食忘れてやり遂げるから妙だ。」 と安吾の書物に書いている。
 
 
新日本風土記の取材旅行から帰って二日めに、脳出血の為48歳で死んだ。 

(465)「坊っちゃん」の時代 関川夏央・谷川ジロー


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1987年7月 9日 第1刷発行
1991年7月21日第9刷発行
双葉社
ソフトカバー
246ページ(本文240P)
880円
図書館で借りる。

 
 
副題が
凛冽たり近代 なお生彩あり明治人
 
 
シーズで5巻のうちの (1)
 
「坊っちゃん」を執筆していた当時の夏目漱石を中心として
明治の文学者たちや世相を描いた作品である。
全5部構成。第2回手塚治虫文化賞マンガ大賞受賞作品。
 
漫画を読んだのは小学校以来かな~?
いやいや、30代に、「釣りキチ三平」と「包丁人味平」を友達から借りて読んだ。
 
自分から進んで読んだのは小学校以来。となりますか。
こういうのを「劇画」っていうのか?
 
              ―――  ・  ―――  ・  ―――  ・  ―――
 
「坊っちゃん」という位だから、夏目漱石の話、と言うのかと思いきや、同時代に生きた著名人、
森鴎外、徳富蘆花、山県有朋、森田草平、平塚明子、ラフカディオ・ハーンなど、と
その時代背景、事件など、虚実織り交ぜながら描かれてゆく。
 
この章で印象的だったのは、英国留学から帰った漱石の為
ハーンが東京帝国大学の職を追われてしまう、なんだか憐れでしかないハーン。。。。

漱石だから、勿論「吾輩は猫である」の猫も登場する。
しかし、ここでは申し訳に登場する程度で少々拍子抜け。
 
 
【「坊ちゃん」の時代・2】
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副題が  秋の舞姫 
 
1989年10月28日 第 1刷発行
1999年 9月 7日 第12刷発行
双葉社
ソフトカバー
286ページ(本文282P)
970円
図書館で借りる
 
 
 
 
文豪・森鴎外が登場する。鴎外の「舞姫」のヒロイン、エリスが中心となって話は進むが
 
ここで石川啄木が漱石に代わって登場する。
 
 
 
【「坊ちゃん」の時代・3】
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副題が  かの青空に
 
1992年1月12日 第1刷発行
1998年6月25日 第7刷発行
双葉社
ソフトカバー
307ページ(本文304P)
1230円

図書館で借りる
 
 
 
主人公は「石川啄木」。 借金まみれの啄木をけなげに支える「金田一京助」
 
啄木の才能は「借金をする事」。 前借の前借の・・・を繰り返しその金は何に使うかと言うと、
女を買い、食べ、あとは電車賃。。。なんとも「ダメ」の見本みたいな、啄木。
 
ひたすらダメ人間の啄木はダメのまま亡くなる。  葬儀の香典が彼が稼いだ中で一番多かった。
 
 
 
【「坊ちゃん」の時代・4】
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副題が   治流星雨 凛冽たり近代 なお生彩あり明治人
 
1995年5月26日第1刷発行
1998年7月19日第4刷発行
双葉社
ソフトカバー
295ページ(本文293P)
1130円
図書館で借りる。
 
 
ハレー彗星が長い不吉な尾を曳いて地球に接近したのは、明治四十三年だった。
彗星の淡い光芒とともに歴史の舞台を横切った秋水、須賀子、寒村、そして血気に満ちた不運な青年たち。
4巻では幸徳秋水と管野須賀子を軸に大逆事件に移り、
宮下太吉ら、4名が、「天皇暗殺計画」 を立てるのだが、
この計画は幸徳秋水が中心であるというでっちあげにより、彼は大審院で有罪とされ、死刑になる。
紅一点の管野須賀子の描かれ方が哀しい。
 
この事件の幸徳秋水ら、26名のほとんどが冤罪だったという。
 
この事件が山縣有朋、桂太郎らによる無政府主義者、社会主義者に対する弾圧の序章となった。
 
また、「足尾銅山鉱毒事件」の田中正造「天皇直訴」が出てくるのだが、
その直訴状の草稿を書いたのが幸徳秋水だった。と描かれている。
 
 
著者は、あとがきで、昭和二十年の破局は、大逆事件の時にレールが敷かれた、と述べている。
 
「・・・それはまさに不思議な事件だった。
 どう考えてみても大部分の被告たちは、その行動によってではなく、
 その思想によって処刑されたとしか受け取れなかったので、
 沈黙を守った作家達も等しく不吉な衝撃を味わい、
 このときに日本の青年期たる「明治」は事実上終焉した。」
 
 
【「坊ちゃん」の時代・5】
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副題が   不機嫌亭漱石
1997年8月28日第1刷発行
1998年7月24日第5刷発行
ソフトカバー
311ページ(本文308P)
 
 
 
 
 
 
「修善寺の大患」が描かれる。
 
漱石が長年悩まされている胃潰瘍のため伊豆の修善寺での療養を勧められる
飲食に節制しなければならない漱石は、かなり食い意地が張っており、吐いては食べるを繰り返す
良くなるわけはない。
 
危篤状態になり、「30分間死んだ」そうである。
この時、これまでの人が生夢の如く蘇り、これまでの登場人物が登場がする。
 
何とか危篤状態を切りぬけ、念願の自宅に戻り、この後の名作を残す。
 
 
何かで読んだのだが、漱石は砂糖をまぶしたピーナッツが大好物で
これほど胃の具合が最悪になった状態でも奥さんや看護婦の目を盗んで食べていたようである
 
看護婦に「先生は有名でえらい方なのに、このくらいの我慢が出来ないんですか!?」と
怒られ呆れられるのが面白かった!(笑)
 
 
本書は読んだすべての人が絶賛している。
「漱石の時代」をかいつまんで描いた本としては、わかりやすいし手っ取り早くて良いのかもしれない。
しかし、漫画を読みつけぬ σ(`ε´) としては、どうもしっくりこない。。。
多分、頻繁に登場する、「啄木」のせいかも。。。(苦笑
 
彼が出てくると、σ(`ε´) が「不機嫌」になる。                                
                               イメージ 6(谷川ジローが描く啄木)
 

(464)【佐助を討て】犬飼六岐

 
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2012年6月10日第1刷発行
文芸春秋社
ソフトカバー
285ページ
1550円
図書館で借りる
 
 
 
 
 
 
 
「BOOK」データベースより
大坂の陣後、猿飛佐助、霧隠才蔵、根津甚八たちが執拗に家康の首を狙う。
家康を守る伊賀組との暗闘、激闘、死闘の数々。手に汗握る忍者活劇小説の登場
家康が夏の陣で、猿飛に命を奪われかけた記憶を払拭できず、猿飛の悪夢にうなされる
 
家康は枕を高くして眠れるよう、配下の伊賀者に猿飛を討つよう厳命する

主人公は、壬生ノ数馬。 新参者の忍である。

 
これだけみると見ると、「面白そぅ~!」と思って  読んでみたんだけどね、
物語が無い、と言おうか、話に引き込まれない、と言おうか、、、、
 
登場人物はやたらと多く、イマイチ、一人一人の個性が弱く、
「ろ組の術者が、は組と、に組に・・・」、「い組のだれそれが、は組に変わり・・」判りにくいんだなぁ~
 
物語には勿論無駄?があって良いんだけどね、
その無駄がストーリーをわかりにくくする場合の見本みたいな気がする。
 
登場人物ばかりが派手で、中身が薄い。
 
タイトルの「佐助」は勿論「猿飛佐助」をt連想するし、
登場人物も、霧隠才蔵、三好晴海入道、三好伊三入道、根津甚八など豪華!
 
タイトルの「佐助」と表紙のイラストに惹かれて読んでみたけど、チョィ期待外れでした。

戦国ツアー④観音寺・佐和山城址・墨俣城

3月6日
長浜――石田神社――石田家屋敷跡――観音寺――佐和山城(米原)――龍潭寺――米原IC――
墨俣一夜城――岐阜羽島IC――名神――東名――横浜青葉IC――自宅着 18:00
 
 【朝の琵琶湖】  朝日に染まる山並みが美しい。
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 【石田神社】
長浜駅から東へ5キロ行った石田町に有るが、通りに面した「八幡神社」の裏に隠れるようにある。
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この「石田神社」の石柱も、八幡神社の裏に取ってつけたようにあり、入口ではない。
三成親族の墓所の入口は幟の向こうであり、この石柱は非常に中途半端なところに有る。
 
 
    赤井椿の花が印象的。
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       【光成辞世の句】 筑摩江や芦間に灯す かがり火とともに消えゆく わが身なりけり
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    【三成墓石出土跡】 と、【石棺蓋】
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  昭和16年までここに、三成の先祖に関係あると思われる、墓石が埋められていたそうです。
  関ヶ原の合戦後、この地の人が徳川方の追求を逃れる為に密かに埋め隠したそうです。
 
 【石田会館】 石田三成の出生地。 
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 かなり敷地が広かったらしく、 「堀端池(治部池)」があり、石田屋敷の堀の一部であったらしい。
 
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      石田三成の資料館になっているが、まだ開いていなかった。 休館日かも。
 
 【観音寺】 秀吉と三成が出会ったお寺。
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「観音寺」は伊富貴山観音護国寺といい、伊吹山山中にあったが、
鎌倉時代中期に現在地に移ったとされる。

豊臣秀吉が鷹狩りで立ち寄った際、寺の小僧をしていた石田三成を
「三碗の才」で見いだした事でも有名。  その水を汲んだとされる古井戸も残っている。
 【観音寺本堂】 国の重要文化財。  本堂の前にはまだ雪が残っている。
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 秀吉と三成の「三杯のお茶」の話は有名だが、
 それがこの「観音寺」と知る人は少ないのではないだろうか?
 
歴史的に有名な寺は多いが、非常に良く手入れがされている寺と、
手入れが行き届かず、寂れている寺があるが、この寺は後者に入るかも・・・この雪を見てもわかる。
 
 【龍潭寺】 井伊家とゆかりがある臨済宗妙心寺派の名刹
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 龍潭寺は佐和山のふもとに有り、佐和山城址はここから入り、ハイキングコースになっている。
 
   「石田三成銅像所」とある。。。?
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                  少し行くと、有りました「石田三成銅像」 
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        なんでこんなところに有るんだろ?佐和山城へ行く道だから?
 
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佐和山城址へは、この先の山門?をくぐって行く。 鬱蒼としてかなり険しいらしい。
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    この日は佐和山城址へは登らなかった。
 
龍潭寺は「庭の寺」として知られており、方丈南庭「ふだらくの庭」書院東庭「蓬莱池泉庭」が有名。
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 また、松尾芭蕉門下の森川許六(きょりく )の描いたとされるふすま絵
 山水、人物、花鳥、鳥獣などを画題として多数描かれており、彦根市指定の文化財になっている。
 
このお寺も、↑の方丈庭園はきれいに手入れがされているが、
襖絵やほかの展示品、展示写真などは色も褪せ、雑多な感じで、寺院内と庭とのバランスが悪い。 
 
  お寺の奥、右に見えるのが佐和山で、【沢山城址】がある
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佐和山城は、「治部少に過ぎたものあり 嶋左近に佐和山の城」 と云われ、つとに有名。

しかし、慶長5年(1,600年)天下分け目の戦いとなった関ヶ原の戦いで、光成は敗れ、
小早川秀秋らに猛攻を受けた。この時の兵力2800人。
 
城主不在にもかかわらず城兵は健闘し、敵を寄せ付けなかったが、長谷川守知など、
一部の兵が裏切り敵を手引きしたため、奮戦空しく落城。
 
父・正継皎月院(三成の妻)など一族は自害して果てた。
 
5層の天守閣を有する佐和山城は、関ヶ原の敗戦により落城。
 
 
徳川方の兵士は、「栄華を極めた三成はさぞ華美を尽くしたのだろう」と思い、
 
我先にと城内に乱入したが、城の壁は粗壁であり、また、何の装飾もない質素な作りであったという。
 
しかも、石田屋敷にあったものは豊臣秀吉から送られた感謝状のみであったと伝わっている。
 
 
佐和山城の建造物は彦根城へ移築されたもののほかは徹底的に破壊されたため、
 
城址にはほとんど何も残ってないそうで、往時の姿を偲ぶことはできず 
草に埋もれて天守台石垣の一部が寂しく残っているだけだそうです。
 
 
龍潭寺の近くに、「嶋左近」の屋敷跡が有ったそうだが、知らなかった! ・゚・(ノД`)ウェーン
 
 
            米原JCから名神高速に乗ったら 又伊吹山が見えてきた。
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  【墨俣城】木下藤吉郎(豊臣秀吉)が一夜にして築いたと伝えられる墨俣一夜城。
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  【墨俣城】 の存在は歴史的に信憑性が乏しいらしい。
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 現在、墨俣城跡の北西側は一夜城跡として公園に整備されており、
 
 大垣城の天主を模した、「墨俣一夜城歴史資料館」 が建てられている。
 
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「秀吉が一晩で城を築いた」事が歴史書に
書かれている訳ではなく、
 
「織田信長公記」には墨俣に砦が有った事は
記されているものの、
この砦は秀吉とは一切関係ない。
 
秀吉とともに築いたと云われる蜂須賀家の
史料にもこに記述は一切ない。
 
墨俣城の一夜城が初めて登場するのは
江戸時代後期の「絵本太閤記」であり、
 
明治以降に広まった話である事から
後世の作り話で有る可能性が強い。
 
このような説が近年強まったという。
 
 
 
 
 天主閣?からは長良川が見え、土手には桜並木。 あと3週間も経てばピンクに染まるんだろうなぁ
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  このあとは我が家へまっしぐら!  
                             どこの国の飛行機だろ? イメージ 22
  
 
  戦国ツアーと名付けた 今回の3泊4日の旅は、一応終わるが、
 
  今回、手前まで行き目的を果たせなかった城祉や、史跡など沢山あるので
 
  是非またこの周辺を再訪したいと思う。   歴史って調べれば調べるほどおもしろい!
 
  もっと、頭が柔らかく、覚えたものを効率良く吸収できる若いうちに興味を持つべきだった。
 
  見たそばから、調べたそばから、ごっちゃになって、しまい、情けない限り。。。。
 
  それでも、全く関心を持たず、この面白さを知らないで終わるよりは、遥かに良し! (^◡^⊹)
 
   
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        戦国ツアー総走行距離 1250km
 
 
                   
                確か日本平PAだったと思う(うろ覚え)
            
              珍しくソフトクリームが食べたくなったけど
              並んでいたので止め、買ったアイスクリーム
                       これが思いのほか旨かった♪
                                 160円なり。
             

戦国ツアー③【琵琶湖一周】

三月5日
長浜――湖岸道路――賤ヶ岳――余呉駅――黒田神社――湖岸道路――堅田(ランチ)――
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瀬田の唐橋――石山寺――近江八幡(街並み)―

安土城跡――長浜    ロイヤルホテル泊
 
 
 
この日は琵琶湖一周する。 
 
賤ヶ岳、瀬田の唐橋、石山寺、安土城が主な目的。
 
琵琶湖は一周200km
普通に走れは4~5時間だと聞いた。
 
 
         スタート地点は 「長浜 」 です。
 
           生憎小雨で寒い。
 
 
【賤ヶ岳】
南北に奥琵琶湖と竹生島、東に伊吹山、北に余呉湖を一望できる賤ヶ岳は琵琶湖八景の一つ。

1583年、羽柴秀吉と柴田勝家が覇権を争った「賤ヶ岳の戦い」の戦場跡で、
                                    
山頂には戦跡碑、戦没者の碑がある。
 
 
  (げoげ)!  残念ながら、冬期リフトは休止だと   はぁ~。。。目的の一つがポシャッた><;
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 賤ヶ岳一帯の山地は長く交通上の障害となっていたが、
 
 1927年(昭和2)賤ヶ岳トンネルが完成し 東西が結ばれ、現在国道8号が通じている。
 
 
     国道の3階建て。2階建は有るけど、これは珍しい。
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    【余呉川】を渡ったあたりから、昨夜降ったらしい雪がそのまま残っている。
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   見える線路はJR北陸本線。
 
余呉湖に行ってみたかったが、道がわからず雨も降っているの断念。
 
余呉駅まで行き、その先「塩津」に抜けたかったが、地図を見ても道が見つからず、結局戻ることに。
 
木之元町に入ると、至る所に「黒田官兵衛」の幟が目につく。
 
  【黒田神社】 木之本駅の北西2Km。R365号線の近く、余呉川の北にある。イメージ 5
 小さな太鼓橋と、鳥居がかわいらしい、この神社の入り口にも「黒田官兵衛」の幟が立っていた
 
 てっきり「黒田官兵衛」ゆかりの神社かと思ったが、案内板には全く「官兵衛」の文字はなかった
 
 どうも黒田家発祥の地。。。父親のそのまた父親のそのまた。。。ということらしい。。。
 
 【木之本駅】 幟をよく見て判った! 今年のNHKの大河ドラマが「黒田官兵衛」だそうだ (ノ∀`)アハ
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  再び、賤ヶ岳のふもとを通り、藤ヶ崎トンネルを抜け・・・琵琶湖パークウエィを通りたかったが
                                           やはり冬期通行止めだった
 
    マキノ駅を通り、 【今津浜】あたり。
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瀬田の唐橋を起点にすると、138km地点。 周が約200キロだから。。裏側には逆回りの距離が
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    【白髭神社の赤鳥居】 神社は道路を挟んだ所に有るが寄らず
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    湖西線の「蓬莱駅」辺りを過ぎるとかなりにぎやかになり、飲食店の看板が目につく。
 
    このあたりで昼食に。車が止めやすかった「焼き肉店」  ぬぬ、これで3日続けて牛肉!
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    カルビ定食                       焼き肉弁当   な!なんと合わせて1680円!!
 
  カルビも思ったより柔らかかったし、お弁当もボリューム満点!お味も良かったです。 満足~♪
 
  途中、サーカス小屋らしき紺色のテントが張って有ったのを見たけど、サーカス小屋かなぁ?
 
 
  【瀬田の唐橋】 近江八景「瀬田の夕照」に描かれており、多くの文学作品に登場するとか。
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「唐橋を制するものは天下を制する」といわれるほど、京都の喉もとを握る交通・軍事の要衝であり、
何度も戦乱の舞台となってきた。
 
壬申の乱(672年)では激戦地となり、 室町時代に唐橋を詠んだ短歌の
 「もののふの 矢橋の舟は速けれど 急がば回れ瀬田の長橋」から、「急がば回れ」 の語源になった。
 
 
現在のように大橋・小橋の形になったのは、織田信長(1534-82)が架け替えてから、といわれており
 
昭和54年(1979)に新しく架け替えられた現在の橋は、木造を廃して鉄筋コンクリート製になっている
 
前から見たかった「瀬田の唐橋」。。。ちょっと(↑▽↑)ガツカリ。 情緒が無いったらありゃぁしない。
 
 
 
 【石山寺】奈良時代後期に聖武天皇の勅願により、東大寺の僧である良弁によって開かれた。
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西国三十三所観音霊場の第13番札所。
    
本堂には紫式部が、「源氏物語」の構想を 練ったと伝わる「源氏の間」もある。
      
また、滋賀県有数の桜の名所として知られ、 4月上旬からは、ソメイヨシノやヤマザクラ、などが咲く
                          
3つの梅園もあり、   紅梅や白梅をはじめ寒梅、長束など、約40種400本の 梅が咲く。
 
この日は紅梅が、チラホラ咲き始めており、様々な鳥の鳴き声が聞こえた。
 
 
 
                      (゚O゚*)ノ  すごい名前の交差点!            イメージ 15
 
   水どりの群れ、のどか。。。。
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【琵琶湖大橋】  昭和39年9月、湖東と湖西を連絡し、県政の均衡のとれた発展と
             琵琶湖観光の開発を図るため建設された
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なだらかな美しい曲線は、湖上を行き交う船舶に支障が無いようにするために設計されたもの。
 
日牟禮八幡宮(ひむれはちまんぐう)
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   もうすぐお祭りらしく、準備に余念がない
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【八幡堀】 安土・桃山時代に豊臣秀次の八幡山城居城のもと、
                                                                     城下町が栄える原因となった町の一大動脈だ。
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 近江商人の発祥と発展、また町の繁栄に八幡堀は大きな役割を果たし、
江戸時代後期には近江国において大津と並ぶ賑わいを見せたという
昭和初期までは、常に町の人々の経済・流通路だったが、戦後は陸上交通の発展によって廃れた。
堀に沿って、白壁の土蔵や旧家が立ち並び、華やかだった当時の様子をよく伝えている。
近年になって、観光名所として整備され、船着き場などが復元された。
 
近江兄弟社学園このあたりは、「メンソレータム」の近江兄弟社本社が有り、立派な学校も有った。
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古く美しい街並み
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  近江商人の街並らしい面影も残っている
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   【特別史跡・安土城祉】
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  バスが見えるところが駐車場だが、既に閉まっていた。
 
 安土城の本丸跡までは、30分位、石段を上って行く。 かなり急できつそう。。。
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 織田信長が天正4年(1576年)丹羽長秀に命じ、約3年の歳月をかけて完成した安土城。
 
      現在、石垣のみが残る。     この石段、信長らしい激しさを感じた。
 
 ちょうど降りてきたご夫婦に聞いたら「死ぬ思いでした。」 ですって! 
 時間的に余裕を持って来なくっちゃネ。
 
                
  長浜に戻り、 あちこち寄りながら、琵琶湖一周 目的達成! 約250km。
 
 しかし、賤ヶ岳のリフトも、琵琶湖パークウエイも閉鎖中だったし、安土城跡へも登らなかったし・・・
 
賤ヶ岳と安土城址は、絶対再チャレンジだな。
 
  
   今夜も昨夜と同じ 長浜ロイヤルホテルに泊まります。
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           温泉で疲れをとって、昨日は中華だったので、今日は洋食。
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   2食付きでこのお値段、この食事、その上、い~ぃ温泉♪  余は満足じゃ~ ヾ(*´∀`*)ノ
 
  明日は、石田三成の佐和山城址、秀吉の一夜城、墨俣城址に行きます。  イメージ 20
   

戦国ツアー②【関ヶ原古戦場】

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岐阜――大垣城――朝倉山真禅院――関ヶ原古戦場(三成陣)周辺――伊吹山裾野を通り――
長浜城――姉川古戦場――小谷城跡――国友鉄砲の里――長浜ロイヤルホテル 泊
 
3月4日 ↓部屋からは【岐阜城】が小さく見える。 朝日が昇る前の月、いいなぁ
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ホテルの朝食レストランは見晴らしが素晴らしく、遠くに白い雪を被った【伊吹山】が見える。
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 今日は、あの辺りまで行く予定。  まだ雪が多いので、山のドライブコースは無理だろうなぁ
 
 
【大垣城】応仁年間には東大寺城と呼び、城主は大垣氏で会ったことから大垣城と言うようになった
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 その後秀吉は一柳直末を城主とし、天守閣の造営を命じ、優美な城として貴重なものになり
 昭和11年国宝に指定されたが昭和20年の戦災で焼失した。 その後昭和34年再現された。
 
     関ヶ原目指し走っていると・・・!(*゚O゚)ノ !ア!ちょっとストッ~プ! 
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      ぬぬ!武中半兵衛とな?!見過ごせぬ、寄って行こう!
 
σ(・ω・。) 「この辺に武中半兵衛の何か有るの知ってる?」   夫 「知らないなぁ・・・行ってみよ」
 
 
【朝倉山真禅院】岐阜県の垂井町にある 天台宗の古刹。
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三重塔・本地堂・梵鐘が国重要文化財に指定されており、梵鐘は東海地区最古のもの。
 
どこを見ても、「重要文化財」の文字は有れど、「武中半兵衛」の文字は皆無。。。
 
何だったんだ?!あのド派手な「武中半兵衛」の看板は? ウヒョヒョ(ノ∀`)σ騙されちゃった~ん
 
   関ヶ原の街に入ると、面白い看板が目につく
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 【関ヶ原古戦場決戦地】今日のハイライトです。
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すぐ後方には石田三成陣跡のある笹尾山が見える
 
西軍有利な陣形で臨んだ戦いだったが、小早川と脇坂ら4隊の裏切りは、たちまちにして戦況を一変
小早川勢の大谷隊への突入と同時に西軍の敗色が濃くなり、各軍兵士の浮足立つ中、
石田隊は集中攻撃を受けながらも、最後まで頑強に戦った。
 
           笹尾山のを前にしたこのあたりは最大の激戦の有った所。
 
 
 
 何も無い、原っぱだと思ったら、馬防柵が再現され、各陣地には幟が立てられ説明板もありました。
 
  こちらは石田三成の陣営で、向かって左は、【蒲生郷舎】 右は【島左近】 の陣跡。
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   【島左近 陣跡】 三成が家禄の半分を与えてまでも仕官させたといわれる人物。
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  前日の杭瀬川の戦で中村泰を破り、本戦では石田隊の先手として布陣。
黒田・田中らと奮戦後、家康陣に迫ろうとしたが銃弾を受けて討ち死にしたとも言われてる  (iДi)
鬼の左近と称され、謎に満ちた猛将像は諸書に様々な姿で描かれている。   ( ↑の立札より)
 
 
 左近陣地の上に有る【石田三成陣地】
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 三成の陣地からは、南宮山(毛利隊)、桃配山(家康本陣)、松尾山(小早川隊)など
 
 一望に出来る。 戦の立地としては最高!
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   (これよりさらに登った 笹尾山山頂石田三成本陣跡があるが、この日は登らなかった。)
 
 
  関ヶ原は四方を山に囲まれたくぼ地で、
       そのくぼ地にいる東軍を、山の上に布陣した西軍が完全に包囲している
                              この布陣は誰が見ても「西軍有利」と思われた。
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          後にこの布陣図を見たドイツ軍の将校も、見た瞬間に「西軍必勝!」と叫んだそうだ。
 
 
      近くに【関ヶ原歴史資料館】が有ったので寄ったが、生憎この日は休館だった。
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 【家康の最後の陣跡】 住宅街の中に有り、整備され公園のようになっている
 家康は合戦が大詰めになると、本陣を「桃配山」から笹尾山(敵本陣)まで1キロの当地に移した。
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  周囲の土塁や、中央の高台は1841年にこの地の領主・竹中家が幕府の命により築いたもの。
 
  正面の小高い所は 家康の床几場。   ここで敵の首実験をした。
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【東首塚】 関ヶ原の戦い直後、家康の命により、当地の領主竹中家によって設けられた。
      因みにこの「領主、武中家」とは、あの武中半兵衛の子、武中重衛門だそうです。
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  関ヶ原の戦直後に竹中家が築いたもので、 東西合わせて6000ともいわれる戦死者達、
  家康によって首実験されたそれら将士の首が、敵味方の区別なく懇ろに弔い供養塚に埋めた。
                                             (西首塚もあるらしい)
 
【首洗いの古井戸】首実検に先立ち、首級の血や土などが洗い落とされたと伝えられている。
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【首級墳碑】 中山道・関ヶ原宿の古山兵四朗が首塚への思いを込め、1817年に建てたもの。
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 石碑の文字は読めなくなっていますが隣の立札には、戦いへの思いを綴った最後に、 
 「この首塚が丘や谷に変わり果てる事のないよう願うものである」と刻まれているらしい。
 戦いの火蓋を切ったとされる東軍の「松平・井伊隊の陣の跡」である事を示す現地説明板が
 さらにその先にある。
 家康の四男の松平忠吉井伊直政が約6千の兵でここに陣を構えたのである。
 
 兎も角、史跡が多くて廻りきれなかった。ここにももっと紹介したい碑がたくさんあった。
 
ここで一番驚いたのは
供養塚を作ったのが武中半兵衛の子供だった。という事に、超! (゜o゜;; ビックリ!
 
 
 ホテルから見えた【伊吹山】がかなり近くなった。 一等三角点が置かれている頂上に登りたい!
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良質の石灰岩が産出する場所として知られていおり、近代コンクリート、セメントの需要の急増により
大量に採掘されてきた。そのため、山容が変形するまでになっている。
左側の裾が地肌が見えている、採掘は今に始まったことではなくて江戸時代からあったそうだ。
 
 
長浜【黒壁スクエア】は、伝統的建造物群を生かした観光スポット。
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  黒漆喰の和風建築である「黒壁1號館」から「30號館」まであり、
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      一般に北国街道と大手門通りの交差点である「札の辻」を中心とする区域を言う。
 
ここでランチ。 ここではやはり「近江牛」でしょ! 
 
      メインの通りに面して大きな店が沢山ありますが
      敢えて、 横丁に入った小さな入口の 近江牛専門店【毛利志満】に入りました。
 
     大正解でした。接客よし、味よし、リーズナブルなランチをいただきましたが大満足でした。
 
 
 【長浜城】 現在の城は昭和58年に再興されたもの。 すぐ後ろに今夜の宿泊ホテルがある。
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  秀吉が建てた城で、「賤ヶ岳の戦い」の軍事拠点とした所。 前が琵琶湖。
 
入口の係員(オッチャン)に明日予定している琵琶湖周辺のことを聞いたら、
親切に教えてくれたのはいいけど・・・あまりにも細かく、先の先の先のそのまた・・・覚えきれぬ
 
タイミングを見て切り上げるのが大変だった (↑▽↑)
 
お城からは今夜のホテルが良く見えた。  時間が早かったのでもう一ケ所
 
 
【姉川古戦場】   
  姉川は伊吹山地の新穂山を源流に、途中、草野川と合流して琵琶湖へと流れ込む一級河川。
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 浅井・朝倉軍と織田・徳川軍の姉川を挟んでの合戦で、この戦いによる死傷者は、
                             浅井・朝倉方で9600人、織田方で5000人とも。
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   彼らの血が姉川を真っ赤に染めたといわれ、姉原と呼ばれていた場所が血原と呼ばれもし、
                                        血川橋という地名も残っている。
 
【小谷城祉】
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  まだ三時だというのに駐車場は閉まってました???
 
 近くにいた人に聞くと、山上の城址まで、途中からは徒歩で行かねばならず、
 かなり時間を要する、という事なので、残念だけど今回は見合わせる事にした。  

【小谷城戦国資料館】に入ったけど、全く印象が薄く、思い出せない。。。。
  
【国友鉄砲資料館】 国友は、近江国坂田郡の地名で、現在の滋賀県長浜市国友町。
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  姉川のほとりに広がる集落「国友」は、戦国時代から江戸時代末期まで、
                             堺と並び称される鉄砲の生産地として栄えた。
 
長篠の合戦以後、大坂の陣にかけて国友鉄砲は目覚ましい活躍をした。
 
太平の世になると、鍛冶たちは鉄砲制作の技術を生かし、芸術性豊かな金工彫刻を始め
                              空気銃、天体望遠鏡、花火などへの道を開いた。
 
 
写真ではわからないが、家紋など、色々な文様が彫りこまれており、その彫り模様の美しい事!
鉄砲がこんなに美しいもの、種類の多いものとは知らなかった。遊び心もしばしば見える。
幾ら見ていても飽きなかった。
 
関ヶ原周辺は数えきれないくらい史跡がいぱいあり、とても一日では廻りきれない
又季節の柔らかい頃ゆっくり見て回りたいと思う。
 
 
   今日はよく歩き、疲れたので早めにホテル入り。 琵琶湖に沈む夕陽が美しい。
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 長浜城を背に、前は琵琶湖、という絶好のロケーション。勿論温泉もある。ゆっくり疲れを取ろう。
 
 
 夕食は中華コース。 最後の方に 持ってきた春巻きをテーブルに置きながら、
 「次は、明太子チャーハンです」・・・     アチャー (;→д←)  夫は魚の子は一切食べない。  
 
 「スミマセン 魚の子、ダメなんですけど・・・」 と言うと、調理場に行って来て
 「それでは、高菜チャーハン にします」と云う。 
 
 「(ノ_< ; ごめんなさい!漬物もダメなんですけど・・・」  もう殴られても仕方ないっス・・・・
 
 「あの、私は雑食なんですけどネ^^;   玉子だけのチャーハンで結構ですから・・・」
 
 出てきたのが 「蟹チャーハンにしました」 <(_ _)><(_ _)>スンマセン。。。。  美味しゅうございました。
 
   し、しかし、、、春巻き、皮の中に大葉がクルリと巻いて有った。 
 
     夫は大葉も嫌いなんデス   (・_;☆\(・ˇoˇ・。)コラッ あれが嫌これが嫌って言わない!
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   部屋はとても広く、清潔、接客も特に女子は◎、食事はまぁまぁ。何よりもリーズナブル!
 
                         長浜ロイヤルホテル泊   ツイン朝夕食付き@9800円
          明日は琵琶湖一周します~♪


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すばらしいツアーですね。
歴史好きにはタマリマセブン…

そう言えば、昔の合戦というのは、近所の民百姓が高台に弁当持ちでやってきては観戦していたというお話を聞いたことがあります。

また、その昔は『やぁ、やぁ、我こそはぁ~ウンヌンカンウン』とお互いに言い合ってから一騎打ちとかという色んなルールでやっていたそうですね。
そういうことも想像しながらこういう所を回ると面白い…

カニチャーハン、よかったなぁ… 削除
2013/3/13(水) 午前 5:13 SAM 返信する
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な、な、な、長浜城。。。
オイラが行った時には、時間終了で入れず。。。
ああ、種馬、、、もとい、トラウマが。。。(T_T)
国友。多分、オイラの親戚筋やと思うんですけどねぇ。
15代将軍慶喜の側近の梅沢孫太郎ってのが、ご先祖ですが、その遠い親戚に国友さんがいて、その人は、プロ野球の審判してて。。。
名前から行くと、国友鍛冶の家系やないかと。。。
で、徳川の側近の親戚筋だから、水戸家のお抱えの。。。
って、想像で、ほんまのことは、よーわからんのですけどね(^^ゞ 削除
2013/3/13(水) 午後 2:39 かじら 返信する
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SAMさん
お弁当食べながら戦を見物・・・へ~!暢気なものでしたんですね。
「やぁやぁ・・・」そう言えば子供のころ読んだ漫画によくありましたっけ。
カニチャーハン。もう笑って笑って・・・調理場から覗かれまして、目が有っちゃいました。 削除
2013/3/13(水) 午後 8:01 kinako 返信する
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カジラさん
長浜城の中より、係のオッチャンの方の印象強いです(爆
ご存じでしょうが、現在のお城は模擬復元されたもので市立長浜城歴史博物館となっています。
ご自分のルーツご存じなんですね。
夫の方は家系図も有り、かなり昔までわかっていますが、私の方は全く分りません。今まで知ろうと思ったこともなかったです。
こういうのは、知りたい人と、どうでもいい人と、両極端ですね。」 削除
2013/3/13(水) 午後 8:11 kinako 返信する
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岐阜県から伊吹山が見えるとは
岐阜県と滋賀県が隣接していることも知りませんでした
確かに東海道新幹線は滋賀県から岐阜県に入ったような?
愛知県を挟んだような?
三重県出身なのにわかりません 削除
2013/3/14(木) 午前 11:37 やいま 返信する
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伊吹山は岐阜県と滋賀県の県境に有り、長浜城あたりからはよく見えます。
新幹線は愛知(名古屋)を通り岐阜(羽島)に入り滋賀(米原駅)となります。
実は私は歴史音痴でもありますが、これだけ旅行をしながら「アナタ任せ」なばかりに、地理音痴でもあります。
点として、狭い地域は詳しいのですが、線での繋がりが良く分かりません。
デジカメで道路標識などバチバチ撮ってそれを教材にしています。
ですので、もしかしたらブログ内で間違いが有るやもしれません。
もしお気づきでしたら教えてください<(_ _)> 削除
2013/3/14(木) 午後 4:46 kinako

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