2013年02月

(460) 【最後から二番目の毒想】倉橋由美子

イメージ 1
 
 
 
1986年 4月21日第1刷発行
1989年10月20日第2刷発行
講談社
単行本
222ページ(本文215p)
1240円
 
 
 
 
 
 
待望の最新エッセー集〈1979〜1986年〉。
女の立場から、文学について、精神の体操、ショートショート等37篇。
倉橋由美子独自の文学世界を映して現実をシニカルに透視する。
倉橋由美子著書は全く読んだことがなかった
いいなぁ。と思うところは、「読者は勿論出版社、もっといえば世間に媚びない、迎合しない所。
厭だなぁ。と思うところは、毒のばら撒きが広範囲、強烈過ぎドン引きしてしまう所。
 
 
「あとがき」から抜粋してみよう
実を言えば私は心身ともに病気なのである。
心の方は昔から「嫌人症」で、
    ( 単に人嫌いを嫌人症とはさすが倉橋先生(^m^) )
これは持病だから死ぬまで治りそうにない。
一方、体は悪いとこだらけで、人に吹聴してみても、同情を買うより相手を不愉快にさせるだけなので
これまで、体のことについては殆ど書いたことがない。
 
まして病苦の詳細を執拗に書き綴ったり、闘病生活を微に入り細を穿って報告することで
人の関心をひいたりするようなことは論外だと思っている。
病気を始めとする個人的な不幸は、
医者その他しかるべき人以外の他人に訴えるべきものではないと思っている。
 
自分の病苦と貧乏、それに女性関係のトラブルなどを洗いざらい書いたのを売り物にしていた昔の
私小説などは、言葉の反吐のようなもので、とても読む気にはなれないものである。
  ( これは耳が痛い人がいっぱい!かつて一時代を築いた多くの作家が当てはまるでそ(ノ∀`)σ )
 
父は51歳にして突然心臓が停止して急死した。私もその年齢に近づいており、
欠陥心臓や高血圧もちゃんと受け継いでいることが明らかになってみると、
今後は自分の体は「高所に置かれた卵」のようなものだと覚悟するしかない。
 
嫌なことを無理強いされてストレスがかかるのは何よりも禁物なのである
後は本当にしたい仕事をすることだけに、残された時間とエネルギーを使いたい。
     ( 病気がなくても或る程度先が見えたら同様な心境になると思うなぁ )
 
学者、小説書きなど本来の仕事が有る人で、何十冊もの随筆を書き残している例をみると
生活の都合が有ったからにしても、埃に等しい自分の身辺雑記をよくもまあこんなにもせっせと
金に換えたものだと索然たる思いがする。
  ( これは、まさに後に出てくる、「裸の王様」的発言と思われ・・・ (ノ∀`)σ  )
 
 
 
        気になって、「倉橋由美子」をウィキペディアで調べてみたら・・・・
1953年生まれ。
2005年6月10日、拡張型心筋症により69歳で没した。
翻訳『新訳 星の王子さま』が遺作となった。
 
         お亡くなりになっていたんだ!<(_ _)>合掌。
 
なるほど。。。。
何事も、「覚悟」のある人は生き方がハッキリし、迷いがなく、物おじせず、云わば怖いものがない。
 
しかし彼女の「歯に衣着せぬ」物言いは、生来のものだろうと思うがそれが「終わり」が見えてきて
それに拍車がかかったのだろうと思う。
 
 
 
  「裸の王様」症候群。の章では
その家なり、文壇なりに所属しない余所者が外からとやかく批判するのは余計なことである。
又逆に外に向かって身内の悪口を言いたてるのも見苦しい。
「内部告発」などと称して正義の徒を装うよりは、なりふり構わず「内ゲバ」にでも熱中する方が
世間に対する礼儀に適っている。
           ----略ーーーー
文学の業界にも裸の王様は横行している。
この王様、裸の胸に勲章をつけるのが大好きらしい。他人が持っていれば自分も欲しい。
そこで王様達は「勲章を授与する会」を意くるも作り、互いに功を称え合い勲章を授与しあう。
 
この互助方式はうるさい王様達を抱えたこの業界を丸く収めるためのまことに合理的な工夫である
           --- 略 ----
文学としては60点でもそれが今年の最高なら堂々の受賞となる。
賞を与える以上は文学として二流か三流かなどと決めつけるのは野暮というもので
まわりで、手が痛くなるほど拍手をしてやれば、知らない人は大傑作が現れたのかと思う
           -----略ーーーー
結局今回受賞するに最もふさわしい人が(作品が、ではない)受賞することになる。
           ー----略ーーーーー
勿論、読者もまた「裸の王様」にすぎないことが有る。
           -----略ーーーーー
かつて山本周五郎は直木賞を辞退した時に、自分には読者がいて、褒美ならその読者から既に
十分貰っているのだから賞などは面映ゆくて頂戴いたしかねる、という趣旨のことを述べ
以後彼はこの原則で一貫して賞というものを一切もらわなかった。
           -----略ーーーーーー
賞を辞退する行為はどの理由を述べても見ても素直には受け取られにくいものであるし、
本人も表向きの理由とは別に腹に一物あることが多いのである。
     
と、かなり強烈なアッパーを食らわしている。そして最後に
自分が裸であることを知っておいた方がよい。そのうえで何をしようと勝手である。
自分さえ恥ずかしくなければ。。。。
 
        (>▽<)キャハハ~あんまり大声で叫ぶと、こだまが返るド~!
 
 
タイトルの「最後から二番めの毒想」は
サティの愛好者ならすぐにお気づきのことと思うけれども、
これは  サティのピアノ曲「最後から二番目の思想」  によるものである。
このあと何冊もエッセー集を出す力はもう残っていないように思われる。
 
 
倉橋由美子の著書を読んでみたいとも思ったけど、
どうも私の苦手とする分野が多いので今はやめておこう。
しかし、結構エッセーなども多く書いているみたい。。。。
よそ様のことは批判しているんだけど、自分は別格なんだろうなぁ
そうよね、作家がいちいちモノを書くのに
自分を顧みたりして、小さなことを気にしていたら書けないものねぇ。
倉橋由美子先生の「覚悟」は並ではなかった。立派!
 
 
 
   最後にもう一丁!(かいつまんで抜粋)
予習はやったことが有るが復習はやったことがない
学校では教室で教わった事はその場でわかるのが正常で、
復習しなければいけないようでは既に異常である。
本当の勉強は、学校の教科書の予習でも復讐でもない形をとるのではなかろうか。
 
もともと女性にはユーモアが無いのが正常である。
ユーモアのある女性などは深海魚のように得体が知れなくて薄気味悪い
女性に有れば良いものは愛嬌と機知である。
ユーモアと口髭は男にだけ似合うものである。
 
                            いやはや・・・・(↑▽↑)

(459)【本の運命】井上ひさし

イメージ 1
 
 
 
平成9年4月10日第1刷
文芸春秋
単行本
187ページ
952円

図書館で借りる
 
 
 
 
  
BOOK・データベースより
本を愛する人へ。本のお蔭で戦争を生き延び、闇屋となって神田に通い、
図書館の本を全部読む誓いをたて、
(寮の本を失敬したことも、本のために家が壊れたこともあったけれど)
本と共に生きてきた井上ひさしさんの半生と、十三万冊の蔵書が繰り広げる壮大な物語。
著者が、子供の頃、
家にあった 大人の雑誌 を読んでいたせいで、
真剣に梅毒になったらしい。と思ってしまったエピソ-ドなど、思わず笑っちゃいました。
 
また、「気になるところに 赤線を引く」。 これで赤線だらになることもある、、、、
 
或る時、古本屋で買った本にやたらと赤線が引いてある。どうりで安かった筈だ。
それにしても、こっちが引きたいと思うところに決まって引いたりしちゃって
小癪なヤツだな。と思いながら読んでいて、、、ハッときが付けば、前に自分の売った本だった――。
 
推理小説を読み進んでワクワクしながらなぞ解きをする。
クライマックスになって、さぁどうなるか、と思って次のページを開くと
そこからそっくり切り取られていた――。
 
また、犯人はこいつだな、と推理を楽しんでいるところで、
「君らは犯人は靴屋だと思っているだろうが実は八百屋だよ」と書いてある――。
 
ひどいことをする人もいる。というお話。。。これにはオチが有るんですが、、、
           昔は、井上ひさし先生も随分悪さをしていたようです。
 
   本屋さんでふと1冊の本が目にとまる、手を伸ばす。
   その時、なにか不可思議な力が働いているように思えてならないのです。
   僕の中のなにが、その本を手に取らせたのか、
   それとも、本が僕にむかって『読んでくれ』と訴えたのか。
   出会いからして、本というものは運命的でしょう。。。。。と著者は書いてます。
 
「運命」とは少々オーバーだけど、
 
私も、巷での噂にも、ネットでも見たことも聞いたこともない本との出会い
それも、ブックオフの100円均一の棚で・・・
手にとって中身も見ず、表紙を見ただけで、迷わず買った本。
これまでに数冊ありました。「運命的な出会い」でしたね~。
 
感動し、今でも印象に残っているそれらの本も、今は手元に有りません。
 
私も、昔と今とでは、ものの考え方や価値観が変わりました
昔ならばお気に入りの本は手元に置いて処分など絶対しなかった。
 
それが今は「買う」こと自体少なくなって、ほとんどは図書館で借りるようになりました。
だから「運命的な出会い」今は全くありません。
 
それでも、読みたい本の70%位は手元に届きます。
古い作品から、新しい作品まで。
 
これだけの量の本をたとえ古本でも買うとなれば私の懐具合ではとても追いつきません。
それに古本屋では「思わぬ出会い」は有るけど、「読みたい本」はなかなか手に入りません。
図書館に感謝。です。
 
「本を大切にする。」という事。
さすがだなぁ、と思ったのは、彼は世間の価値観に全くとらわれない
分厚い本をハサミで切って3分割し、持ち歩きに便利なようにする。 とか
帯とカバーは外れてしまうので糊でくっつけてしまう。 とか
書き込みは、どんどんするそうです。
 
意外だったのは、たぶん彼にはタブーであるであろう、あの「離婚」のこともサラリと触れています
 
どんどん本が溜まって何冊あるかわからないけど、まぁ3万冊くらいだろうと思っていた。
或るきっかけで、それが何と13万冊有ったことが判明した。
 
それは、前の奥さんと著者がうまくいってないらしいと噂が流れた瞬間に古本屋が
「必要があったらうちで引き取ります」。それも3軒やって来た
 
離婚話が具体化すると、今度は自治体と大学から人を介して本を引き受けたいという話が来た。
 
いろいろ有って「本は全部故郷の若い人たちにそっくりさしあげよう」、ということになり
町の協力で使用していない建物を利用し、図書館が出来た。
 
運べども運べども本は減らない本・・・・結局13万冊。。。。
 
前の家は床がゆっくり落ちたそうです。(笑
 
 
最後に
電子ブックができて本は無くなるか?という話。
 
私と全く同感のことが書いて有りました。
 
電子ブックは非常に便利だけど。。。それとは別に
「ページ風をたてる」 これは電子ブックにはない。全体が見渡せない。
 
後色々書いて有りましたが、この二つ。全く同感です。
 
本書には著者の子供の頃のこと、お兄様のこと、お母さんのことがサラリとかいてあり
彼の著書で私の大好きな「あくる朝の蝉」を思い浮かべながら読みました。
 

東横線渋谷駅にお別れ

   イメージ 1
  
  東横線渋谷駅 (地上2階) は
 
  副都心線との相互直通運転に伴い         
  3月15日の終電をもって           
  地上での営業が終了します。
 
東横線の渋谷駅は長年お世話になった所です。
 
近年大きく様変わりした渋谷周辺で
変わらぬものは、東側 (現ヒカリエ)から見る
駅ホームの逆おむすび型の壁?位です。
 
 
 
  
 
お天気も良いので、昔馴染んだ懐かしの、「東急東横線・渋谷駅」にお別れに行きました。
 
               ↓ この壁だけが昔とあまり変わりません。
イメージ 10
 
                線路のどん突き。   始発で有って、終点。      
イメージ 14
 
              正面改札口。  ここも、もう20日後には無くなっている。
イメージ 15
 
               「東横線・渋谷駅」 引っ越し!
        高架から地下5階へ  3月16日深夜に4時間で移動
 
                   新しい渋谷駅はどこにできるのか?
  今の駅から 明治通を隔てた反対側、
    昨年4月にオープンした 複合商業施設「渋谷ヒカリエ」 の地下5階になる。
   
      ホームも線路もすべてでき上がり、 東横線の広報担当者は
                            「電気も通ってますので、もう電車が走れる状態です。」 という
 
イメージ 16
 
東横線は代官山から1.4キロ を地下へ潜って「渋谷ヒカリエ」に至り、
                           そこから明治通りの地下を走るメトロにつながるのだ。
 
しかし、東横線の1日の輸送量は111万人で、電車を止めずにどうやって線路をつなげるのか。
 
「ストラム工法」という日本ならではの技術だという。
代替線路を引く場所がない日本では地下か高架にするしかない。
東横線ではいま走っている線路の下を掘って準備を進めている。
代官山近辺は電車が走る真下はがらんどうで、作業員が最後の工事を続けている。
ここで4時間の間に線路の付け替えをするという。
 
          では、今の東横線ホームはどうなるのか?と言へば、
 
東京・渋谷駅の JR埼京線のホームを、 
3月に地下に引っ越す東急東横線渋谷駅の跡地に移す方向で
JR東日本などが検討を進めていることが23日、分かった。
 
埼玉や神奈川方面から山手線への乗り換えが便利になる
 
新たに建設される駅ビルを含めた再開発工事は2026年度までに完了する見込みだ。
 
    JR東や東急によると、 現在のJR渋谷駅では、
埼京線と山手線との乗り換えに約350メートル歩かなければならない。
 
08年に渋谷区がまとめた再開発計画で、
山手線と並行するように埼京線の駅を移すことになり、場所が検討されてきた。
 
山手線がある2階に埼京線もホームをつくり、3階のコンコースでつなぐ。
 
 
う~ん・・・便利になるのか?不便になるのか?やたらと上がったり降りたり・・・ 
乗り換えも便利なようで、不便なような気もしないではないなぁ・・・
 
渋谷乗り換えでなくての、乗り降りは、とっても不便になる
 
だって地下5階! 乗り換えだって相互乗入れ利用じゃない人は不便になったんじゃないの?
ま、今はあまり利用しないから。 でもまた「おのぼりさん」状態になるんだろうなぁ (´A`;)
  
ついでに渋谷の街をそぞろ歩いてみました。  昔の面影のある所は、数えるくらい。
 
ハチ公の向きも変わっており、 東急デパートを背にし、道路側(三千里薬局方向)を向いていたのが
        90度右へ角度を変えていました
イメージ 5
駅を出るといやでも目に入った「三千里薬局」がない!と思ったら、
                   場所を移して5分の1くらいの小さな間口で営業していました。
 
    ハチ公広場には「玉電」が置いて?ありました
イメージ 6
  中は出入り自由でシートに座って読書をしながら街人が来るのを待っていたり・・・
 
西村フルーツパーラーは流石!ありましたよ (昔は井の頭線のガードをくぐった所にもう1件あった)
イメージ 7
   ここでフルーツパフェを食べて、柄の長い銀のスプーンを失敬したことも (^^;)ゞ
 
   「くじら屋」、 立派になってまだありました。   何の変哲もない店だったと思ったけど・・・
イメージ 17
    おお!「マルナン生地」屋さん、頑張ってます
イメージ 2
 渋谷で生地屋、といえば 東亜、という大きな店があり、その世界では権勢を張っていたんですけど
 跡形もなかったです。  
 
 当時、このマルナンさん店主、やけに上から目線で押しつけがましくて・・・・^^;
   ちょっと覗いてみたら、今もおっかなそうなオバチャンが仁王立ちになっていました。(笑
 
 
        この「109」が出来る前後から渋谷は全く違った街になったような気がします
イメージ 3
    路地もせまくなり  (たぶん道幅は変わらないと思うけど建物が高くなって圧迫感がある)
 暗くて雑然として、ケバケバしくて、落ち着きがなく、品の無い街になってしまったような気がします。
 
  ちょっと気になったのが、このお店。   
イメージ 4
  昔は今と違い、廻る寿司屋など無い時代。 カウンターでお好みで寿司をつまむ、なんぞ
  下々の私など、懐具合が心配でとてもできなかった時代でしたが
 
そのころから、立ち食いですが、「お好み」でも、破格の値段で食べられたお店があり、
給料をもらうと連れだって食べに来た記憶があります。 ここだったような気がするなぁ。。。
 
 
  道玄坂を上がって行くと、上通りに出る少し手前に「百軒店」(ひゃっけんだな)があり
イメージ 8
            その坂を上って行くと・・・・・  有りました!\(゚∀゚*)/
イメージ 9
  うわ~!まだ有った!  看板が置いてないけど 入口に汚い看板が置いてあったのよね~
 
昔は渋谷を徘徊する人で 「ムルギー」 を知らなければモグリと言われる程 有名なカレーのお店
                当時はメニューは3種類くらいしかなかった。
イメージ 11
   水みたいなカレー汁の上は油がギラリと浮いていて、でも食べるとくどくなく、病みつきになる味
 
            当時は↑のような生クリームなんぞかけてなかった
   だけど、皿の隅にポツンと置いてあるチャツネはもう少し情緒がある置き方で美味しかった。
 
 豆粒みたいなラッキョと福神漬け、あともう一種類なんだっけ??四角い洒落た器に置いて有った
 
        席に座ると、ほとんどのソファーのスプリングが壊れていて、ボコッと凹んだ。。。
 
今は店内が明るくて椅子は木のあじ気ない椅子に代わってました
昔のあの、怪しげな薄暗い店内を思い出すと、あの時代が蘇るような気がし、懐かしみました
 
 
帰り、「店の前にいつも置いてあった看板は?」 と聞けば 「規則で置いてはいけなくなった」とか・・・
 
そう言われれば裏道の割にはスッキリしてました
 
百軒店の入口のほうが、余ほどゴチャついて怪しげで汚かった
百軒店は、円山町の入口で、昔は色街、と言われてました。
 
そんなところに有る、当時では珍しい、「カレー専門店」 だから面白かったのかも知れません。
  
  帰りは昔の、「東光ストアー地下商店街」と 言われた所が どうなっているか、潜ってみました
イメージ 12
  わ~~~!!変わってない! そうそう、この靴下屋さんでずいぶんストッキング買いました
 
もう一本向こうの筋に行くと、ケーキのコージーコーナーがあって、 
他の店のケーキより大きくてボリュームが有って、「サバラン」が好きでした
 
千成モナカ、とか、兄貴がお給料日によく買ってきてくれたっけなぁ・・・・
 
そんな兄は死んじゃったし、私もババアになったけど、
こうやって昔を懐かしむのもたまにはいいかな?
 
 
帰りもまた東横線で・・・・最近は、めったに乗らない電車。たまにはいいですね~
 
昔から、この玉川を渡るとき、私は不思議と、「血が騒ぎ、胸躍り」ます
 
                玉川こそ、私の原風景なのかもしれません。
イメージ 13
ひとくちに「たまがわ」と言っても、 ↑は 「丸子多摩川」。  東横線の多摩川駅周辺。
                    近くの田園調布の駅から見えたテニスコートは無くなっていました。
 
私が一番親しんだのは、昔の「玉川線」、今、田園都市線の「二子玉川」です。
                   
遊園地はとっくに無くなりまして、 周辺には玉川高島屋が出来、高層マンションも建ち、
これからは商業開発され、もっと大きなビルが林立するでしょう。 (嫌だなぁ(>へ<。) 
 
桜の時期は土手の桜も古木になり見事です。
 
もうひとつの多摩川。 小田急線の「泉多摩川」です。 
テレビドラマになった 「岸辺のアルバム」の近辺です。 
 
近年、夏になるとバーベキューをする人でにぎわうのはいいのですが、あまりにもマナーが悪く 
これまでのように自由に河原を使わせないようにするとか????定かではないけど・・・・
 
 
        話が横道に逸れてしまいましたが、懐かしく楽しい一日でした。
 
  あっ!!(*゚Д゚σ  3月16日深夜、4時間かけての東横線の大移動、見に行きたい!
 
  でも、地下??じゃ見えないか。。。(↑▽↑)ざんね~ん!

(458)【サイゴンから来た妻と娘】近藤紘一

イメージ 1
 
 
1978年5月20日第1刷発行
1979年4月 5日第5刷発行
文芸春秋
単行本
259ページ(本文253p)
980円

図書館で借りる
 
 
 
 
 
 
ベトナム戦争、戦火のサイゴンで日本の新聞記者が、大輪の花のような笑顔に惹かれて
子連れのベトナム女性と結婚した。
サイゴン陥落後、日本に移り住んだ親子3人だったが、妻のベトナム式生活ぶりと子育て方は
まったく変わらず。
親に絶対服従のスパルタ教育にショックを受け、可愛いペットのウサギ料理に度肝を抜かれ……
毎日のように巻き起こる小事件を通して、アジア人同士のカルチャーギャップを軽妙な筆で描く。
大宅壮一ノンフィクション賞受賞作品。
後にNHKでドラマ化もされています。

ベトナム戦争とは、1960~1975年、ベトナムの独立と南北統一をめぐって争われた戦争。
形式的には北ベトナムと南ベトナムの戦争だが、
其の背後は「共産主義・当時のソ連、中国」 対 「資本主義・アメリカ」で、「代理戦争」とも呼ばれた。
 
著者の近藤紘一氏は、
ベトナム戦争後期の71~75年に、サンケイ新聞の特派員としてサイゴンに駐在。
 
サイゴン陥落(サイゴン解放)の時には現地で取材をしていた。
崩壊直前のサイゴン政権や直前直後の庶民の暮らしがよく描かれている。

そのときに知り合ったのが、ベトナム人の女性と連れ子のミーユン。
彼女との出会いとベトナムでの生活、そして日本に来てからの3人の生活の様子が、描かれている

 
この頃のベトナム人の子育ては、子供に対しては、徹底した性悪論でのぞむ。 
大多数の親は、子どもは動物と同じ、と割り切っている。
子どもには自分で物事の良し悪しを判断する能力などない。
だから外側からそれを叩き込んでいくのが親の仕事。
 
というのが、この国の子育ての一つの基本らしかった。
 
母親に対しては絶対服従で、体罰当たり前、徹底的に打ちのめす。
娘のユンもこうして体中アザだらけで育った。
だから母親に対しての恐怖心は大変なものだった。
掃除、洗濯、買い物、炊事、後片付け、その他雑用全般・・・
 
これでは、母親が人殺しを命じたら本当にやっちまうんじゃなかろうか、
そう思えるくらいよくいう事を聞く。
 
母親のほうも、よくこれほどこき使える、と感心するくらい次から次へと娘をこき使う。
いじけてしまうのでは?と心配すれば、
「この程度でいじけてしまうようなら、それはもともとできそこないの証拠、 
                            そんな子ならちっとも惜しくない。」とうそぶく。
 
あまり頭ごなしにやられるので
「またママン自分で置き忘れたくせに私のせいにした。いつでもこうだ。いつでもこうなんだ。」
その口調や目つきにはちょっとたじろぐほどの真情がこもっている。
 
確かにガミガミの10回のうち3回くらいは八つ当たりの無理難題なのである。
たまりかねて妻をたしなめる
「いい加減にしないと、ユンもいつまでも赤ん坊ではない。クーデターを起こすぞ」
妻は全く気にも留めず
「勝手に膨れさせておけばいいの。あれだけ理不尽な怒られ方をして腹が立たないようなら、
                               それこそあの子、見込みなしよ。」と、平然としている。
 
 
ペット屋のウサギが気に入り、かわいいかわいいと言って飼いたいという。
マンションは動物飼育禁止だといっても 「だいじょうぶよ」 と二匹買ってきてしまった。
 
「この子はこの葉っぱしか食べないから」、と遠出までして葉っぱを取りにでかけるのに、
「悪いことをして何度注意しても聞き分けがない」 と、
その日のうちにベランダで解体し、晩御飯のおかずにしてしまう。
 
血だらけのベランダ、著者はあわてて残骸を新聞紙にくるんで焼却炉に放り込んだ。
 
娘が「アオザイを着るための体型作り」は凄い
まず娘の睡眠時間を厳しく管理した。毎朝6時半に起きて学校へ行く。
母親は12時までは絶対寝かさないし、横になることを許さない。
 
鞄を置く間も与えず、買い物や炊事など家事の手伝いを矢継ぎ早に言いつける。
「せめて一息つかせてやれ」、というと、
「6時間ぐっすり寝れば十分。この年齢でダラダラ休ませたりすれば肉がブクブクになってしまう」。
 
大好きなコーラを禁止にし、大嫌いな牛乳を1日1ℓ飲まされることになった。
大嫌いな牛乳を息も絶え絶え飲んだ後、「コーラがダメなら、せめて水にしてほしい」、と訴えたが
もちろん却下である。
 
毎日学校から帰ると、1カートン買いにやらされる。
そのくせ妻自身は牛乳など口をつけたこともない。コーラ大好きだのだ。
のどが乾けば、「ユン、ママに冷たいコーラもっといで」。。。
 
日本社会に放り込まれ、逞しく日本に馴染み、日本語を どんどん覚えてゆく娘と
日本社会に入っても、頑として自分の生き方やり方を崩さず押し通し、日本語を覚えようとしない妻
その二人を温かく、しかし、どこか冷めためで見つめる著者。
 
 
著者の近藤紘一氏は、最初の奥さんに自殺されている。
又、サイゴンの妻は、近藤氏と知り合ったきっかけは、遊びに行く日、同僚が連れてきた
現地調達の「女」で、彼女も最初の夫と別れている。
 
それぞれ全く違う文化で暮らし、お互いに手探りの状態で互いに文化の違いに
カルチャーショックを受けながら寄り添って生きている。
 
 
著者が最初のころに書いているが、
ベトナム人は「やってもらってあたりまえ、感謝というものを知らないのか、
                                めったにありがとう、とは言わない」
これは外交でも同様で、諸外国から、しこたま援助を受けても感謝の意を表すことはないそうだ。
 
 
 
ベトナム難民が与那国島に大挙して上陸したときの逸話なども興味深い
 
難民船はフィリピン船に見捨てられ、台湾に上陸を拒否され、
日本人は親切だから受け入れてくれる、と日本上陸を促した。
与那国島の入り江に入った時には、いつ撃たれるか気が気ではなかったが、簡単に上陸できた
見張りもいない、国境警備隊もいない国が驚きだった。。。という。
 
 
本書を読んだ人の感想は、大方の人が「感動した」とか
ベトナム妻の逞しさと近藤氏の愛情あふれる温かいまなざしに、、うんぬん。。。
と言っているようだが、
私なんぞ、これを読む限り、ベトナム人とは、絶対にお近づきにはなりたくない、と思った。
 (もっともこの当時からベトナムは激しく様変わりをしすべてが当時の物差しでは測れないと思うが。。)
 
著者夫婦が「どっちが先に死ぬか?」という話が出た時
近藤「そりゃこっちだ。もう働きすぎて消耗しかかってる。俺が先に死んだらどうする?」
妻「その頃はユンも自分の生活を持っているでしょうから、でも生命保険だけは沢山かけておいてよ」
近藤「幾らくらい?」
妻「そうね、少なくとも3千万円くらいはかけておいてよ。
  とにかくお金を手にしてから後追うか追わないかかんがえるから」
 
まだ3千万の保険に入ってないから死にきれない。
幾ら彼女が生活力に長けているからといって今、夫にポックリいかれたらお手上げだろう
最近は地下鉄のーホームでは、決して白線の前へ出ず、道路は前線と心得て歩く習慣がついた。
  と締めくくっている。が、
 
近藤紘一氏は、本書出版の12年後の1986年
病気のため虎の門病院で亡くなっている。45歳であった。
彼の葬儀では産経新聞の同僚であった、司馬遼太郎が弔辞を読んだ。
 
 
本書のほかに「パリに行った妻と娘」「バンコクの妻と娘」の妻と娘シリーズがあり
他に「目撃者-近藤紘一全軌跡1971~1986」がある。
 
「目撃者――、」は、
 
国際報道記者としてボーン上田国際記者賞を、
ノンフィクションライターとして大宅壮一ノンフィクション賞を、
新進作家として中央公論新人賞を。
妻、娘、多くの友人達から愛され、
将来を嘱望されながら45歳でガンに倒れた、新聞記者の未刊行作品を収録。されている。
 
                       ぜひ読まなくては。

(457)【本よみの虫干し】関川夏央

        イメージ 1       
 
2001年10月19日第1刷発行
岩波文庫
文庫本
255ページ(本文252p)
780円
 
図書館で借りる
 
本書は朝日新聞に週1度掲載されたコラムと
「図書」に連載されたコラムに加筆訂正したもの。
 

しばしば「本の虫干し」と呼ばれたが本来は「本のよみの虫干し」。
 
とりあげられた58の作品は有名な作家の代表作が多いのだが
 
全く知らない作家も結構いたし、「へ~、これはあの作家の作品だったんだ」と思うようなものもあった
 
2、3ページに一人の作家の作品と、その作家や、その時代にまつわる話などが織り込まれている。
 
 
伊豆の踊子・川端康成」  報われない純愛
 どうも感動できない。
20歳なら満19歳だ。なのに温泉旅行をする。気に入らない。
温泉は大人が行くところだろう。。。その上純愛をする。
               
当時から私は純愛より金銭の構造に興味のあるひねたコドモ出会った。
ゆえに、知識人たる学生が喫茶店で 50銭 の心付けを置く行為に不思議さと、
あやしさの念を禁じ得なかった。
 
        アハハ~~そうだ学生が伊豆旅行、チップ。気がつかなんだわ
 
 
ラディゲの・肉体の悪魔」  早熟とは不運にほかならない。
レイモン・ラディゲは画家の息子として1903年に生まれ、1923年二十歳で腸チフスで死んだ。
 
名門校に通うフランソワは第1次大戦の最後の年16歳だった。
彼は出征中の男の妻マルトを愛した。マルトが妊娠した。予定よりも2カ月も早く赤ん坊は生まれた。
ならば夫が休暇中に帰って来た時に出来た子供だ、と少年は安堵するが、実際は早産だった。
マルトの家族と医者が口裏を合わせて、夫の子ということにしてしまうつも理だったのだ。
マルトは出産後、間もなく死んでしまう。
「妻はあの子の名前を呼びながら死んで行きました、かわいそうな子供です!」
マルトは子供に少年と同じ名前を付けたのである。
 
ラディゲは1943年の開戦にはようやく11歳になったばかりだから、
16歳で書き始めて18歳のとき完成させた小説は、必ずしも自伝とは言えない。
ラディゲ自身も頑強に否定していた。
しかし、15歳のとき、出征軍人の婚約者と恋愛したのは確かだし、モデルとされた男性は
自分が戦地から婚約者に出した手紙と彼女の日記をラディゲは盗み読んで小説につかったのだ、と
後に語っている。
 
わざと壊した眼鏡を方眼鏡のように使っていた。
タバコとコニャックを過ごし睡眠剤の常習者であったラディゲは気の毒なまでに早熟であった。
1923年ラディゲはパリで腸チフスを発病した。カキにあたったのだといわれる。
それでも彼は「ドルジェ伯の舞踏会」のゲラに手を入れることをやめず、次第に衰弱した。
25歳5カ月の生涯であった
 
  何故か、このラディゲを物語る数ページの中に「三島由紀夫」の文字が何度も出てきた。
 
 
 
点と線・松本清張」  1958年の「旅情」と「社会派」
この「点と線」が日本交通公社の雑誌「旅」の連載小説だった。とは知らなかった!
 
著者(関川氏)は清張小説の不備というかほころびを完膚なきまでに?突いている。
たとえば、課長補佐が31歳とは若すぎる。とか、
部長に忠義立てし、指定された旅館から一週間一歩も出ず、ひたすら連絡を待ち続けた。という
設定も説力を欠く。
このころの日本の混迷を招いたという官僚機構の描き方としてはあまりにも、薄弱であり通俗である。
清張は高度成長時代の果実の分配の不平等にのみ執着して、
その時代精神を「嫉妬」と「恨み」に因数分解した作家である。
 
   と、かなり痛烈 (゚m゚*)
  ま、確かに、同様のことが書かれている文をどこかで見たし言っている人もいるけどねぇ。。。
  そのころはこの小説が爆発的に売れ、清張ブームが起きたんだから。。。。

 
 
「正岡子規・仰臥漫録」   必然の暴食・決死の美食
カリエスを病み、医者も生存をあやしむほどの重症であったが、正岡子規は実によく食べた
 
明治34年9月24日の一日の献立は、
朝、佃煮と漬物でご飯3杯、ココア入り牛乳と餅菓子と、せんべい。
 
昼、粥三椀と刺身、漬物、果物におはぎ。
おやつに、牛乳、餅菓子、菓子パン、牡丹餅、煎餅とお茶。
 
夕食、粥3椀に魚の照り焼き、に豆と果物、食前には葡萄酒を1杯筒飲んだ。。。。。
時には、夕食にイワシ18尾、官職にはスイカ15切れ、桃缶3個を一度に平らげた。
 
しかし、その度に激しい腹痛に見舞われ吐き戻した。
全身を結核菌にむしばまれて文字通り穴だらけとなった体には、もはや消化能力はなかった。
 
それでも子規は食べ続け、痛みに号泣し、妹律を「同感同情のなき木石の如き女なり」と悪罵した。
 
子規は月々50円の収入があったが、薬価を除いた食費の割合、エンゲル係数は65前後に達し、
ほとんどが子規によって消費された。
 
「糸瓜(へちま)咲きて痰のつまりし仏かな」が絶筆。
 
訃報をロンドンで聞いた漱石の手向けた一句 「筒袖や秋の棺にしたがはず」。
 
    ちょっと幻滅だなぁ。。。 これほど食べるのも、病気?
                         妹に面倒見てもらってすごい言い草!
 
 
 
「啄木・ローマ字日記」  病気願望の多重債務者
「予は弱者だ、しかるに予はあまりにもみもこころも健康だ」彼は病気にあこがれていた。
その本心は「病気!ああ、このあらゆる責任を解除した自由の生活!」
要するに怠けものだったのである。
活動写真と女に逃避し酒を飲み、勤務ぶりはいい加減、月に2日しか出ない癖に給料前借した。
啄木の貧乏は彼自身の責任だった。
結局望み通り病気になり、現在の価値で1千万円の多重債務者のまま、
明治45年4月26歳で死んだ。
 
  え!啄木ってそんなダメ人間だったの?!ものぐさで無精者で、無神経でずうずうしくて。。へぇ~
 
 
 
「放浪記・林芙美子」   生まれながらの「庶民」の物語
行商を生業とする母と義父に従い幼児期から各地を流れ歩いた。
 
大正5年ようやく尾道に落ち着いて、当時その階層としては異例の高等学校を卒業した。
 
いろいろ職を経て一番気に入った女給になった。恋人も次から次へと変わった。
 
放浪記を出し実名で虚構を書かれた人たちの抗議を受けると
「私はあんなことでも書かなければ食べてゆくことができないのです」といった。
殴られながら男の機嫌を取り金を貢いでいた彼女だが
精神的には他人に侵される隙がないどころか、どしどし侵す勇者だった。(平林たい子)
48歳で突然死した。過労死だった
 
川端康成の弔辞
故人は自分の文学的生命を保つため、他に対して、ときにはひどいこともしたのでありますが
死は一切の罪悪を消滅させますから、どうか故人を許してもらいたいと思います」
 
川端康成って弔辞を読むことが多いようだけど、優しいんだ。
 
彼女はある意味「えげつなく」生きたのね。 同僚の女性作家仲間には不評なのもうなづける。
でもねぇ、あの時代、そのくらいえげつなくていいと思う。
偉いわよ、自分でのし上がっていったんだから・・・その頃の作家って皆周囲の人物を題材にして書いてるもの、或る事ないこと。。。
林芙美子だけじゃない。彼女が取り立てて非難されたのは売れすぎて嫉妬もあったんじゃないかなぁ
でも死んじゃぁダメじゃん (iДi)
 
 
 
「抹香町・河崎長太郎」  頼れるものは自分の感覚のみ
抹香町とはかつて小田原にあった私娼街である。
1938年36歳のときから川﨑長太郎は、実家の漁具などを入れる物置小屋の二階、
二畳の空間にビール箱の机を置いて起居していた。
戦時中には窮して近所の店先からパンや駅弁を盗み、
瀕死の母親の口から金冠をむしりとったりした。60歳のときに30年下の女性と結婚した。
老後は安堵されたが、そのかわり、畳の上で死ぬために
「一番書きたく、又書くに値する泣き所」である「家庭内の消息」が書けなくなった。
 
 
 
「吉川英治・宮本武蔵」 大正教養主義の嫡子であった剣豪
それは青春小説であり、ひとりの青年の成長過程を追うという意味で教養小説でもあった。
 
登場人物がこぞって日本全国を移動するという構造がある。
お杉婆、又八、朱美、小次郎、沢庵、青木丹左衛門、その子城太郎、夢想権之助、
宍戸梅軒(実は辻風黄平)、お甲と祇園藤次までが、
武蔵の動きに陰に陽に従って旅をするのである。
 
なるほど、確かにほとんど全員が憑かれたようになって移動している。
ヒロイン・お通については、ストーカー的であるという強烈にネガティブな表現をしている。
「武蔵を慕うお通は、姫路の花田橋で970日武蔵を待ち続ける。
彼女の行動と心理は可憐というより、ストーカー的である。
 
吉川栄治は、初婚時代恐妻家と言われ、実際女中の下駄を履いたまま家庭を出奔、
1年あまりも温泉と東京のホテルに「家妻の目を避け」ていた。
 
 
「流れる・幸田文」 技芸を頼んで生きるシングルたち
1947年7月、幸田文は父露伴を看取った。
死の床で露伴は片手を文の手にかけ、「おまえはいいかい」といった。
「はいよろしゅうございます」とこたえると、露伴はその手のひらと一緒にうなずき、
穏やかな目のまま、「じゃあおれはもう死んじゃうよ」といった。(「終焉」)
 
婚家から戻ってすでに10年。下駄や化古本屋でもするつもりであったが、
乞われるままに露伴の思い出を書くと、無駄のない、それでいて感覚的な文章が注目を浴び
「父――その死」「こんなこと」「みそっかす」を立て続けに刊行した。
 
しかし、1951年彼女は突然「女中奉公」に出てさまざまな職歴を遍歴した。
 
名犬どもの世話をする仕事に応募すると、「犬には若すぎて惜しい」と言われた
その犬一匹の食費より安い給料で彼女は働いた。
 柳橋の芸者沖やに下働きとして住み込んだときは40代も終わる頃、になっていた。
 「流れる」はそこでの経験をもとに書いた
 
文は6歳のとき母を失った。22歳で結核の弟を看病の末に看取った。
 露伴は文に家事百般を手ずから仕込み、この間、彼女が女学院に通いながら幸田の家を支えた。 
緩みない家事の合理性に鍛えられた挙止、手仕事とともにある教養の立ち姿そのものであった。
 幸田文は露伴がこの世に残した作品である。
 
 
 
 
「麻雀放浪記・阿佐田哲也」  青春も人生も徒労である。
別名「色川武夫」はナルコレプシーという奇病だった。
 
その入院費のために「麻雀放浪記」は書かれ、阿佐田哲也、(朝だ!徹夜)という筆名が選ばれた
 
麻雀放浪記1冊だけでやめるつもりだったが以外に好評を博したため連載は4年間続いた。
 
生活のため100本以上の娯楽小説をさまざまなペンネームでかいた。
 
しかし1961年変名で売文するのが空しくなり、不意に廃業して「黒い布」という小説を書いて
その年の中央公論新人賞を受けた。(これは色川の父親の物語だった)
 
1974年彼は再び純文学に回帰した。「怪しい来客簿」を書き、
それが色川武大名義の最初の単行本として77年に刊行されて泉鏡花賞を受けた時には48歳だった
 
78年「離婚」で直木賞。81年「百」で川端賞。
 
最晩年である89年には「狂人日記」で読売文学賞を受賞した。
 
1989年岩手県一関に転居した直後、「心臓破裂」という珍しい死因だった。60歳だった。
 
 
「麦と兵隊・日野葦平」 忘れようとされた記録文学。
花と龍。も日野葦平作品だったんだ。彼の父親と母親がモデル。
 
1960年1月急死した。53歳であった。心筋梗塞と発表されたが自殺だった
 
「死にます。芥川龍之介とは違うかもしれないが、或る漠然とした不安のために。
 さようら。お許しください。」
 
自殺とは知らずにいた母マンが永眠したのは葦平13回忌の当日の朝で、母の死の直後に
真相が発表された。
 
   玉井金五郎、とマン。花と龍に出てくるもんね。父母の本名だったのね。
 
    他にも興味ある作家の作品紹介と逸話が盛りだくさん。
 
    こういう本は1回目はサーっと流し読みし、2回目はじっくりと、読むと面白い。

(*^m^*) クスッ!

 
        ――ネットで拾った (*^m^*) ちょっと笑えた話 ――
 
【その一】
母と諍いが絶えなかった祖母が亡くなった
イメージ 1
  祖母の住んでいた古い小屋を壊そうとした時、息子が言った。
イメージ 2
其の小屋は壊さないでください
イメージ 3
其のうちお母さんが住むことになりますから。
 
【その二】
息子が「ぐれるぞ」     両親を脅した

イメージ 5
父親が「ぼけるぞ」
イメージ 6
        脅し返して、勝負あった (*^m^*)ムフッ
  
                       【その三】 
     日常茶飯事 を 日常ちゃわんごと
 
             彼岸 を かれぎし と読むバカ息子     (*^m^*)ムフッ
 
イメージ 4
 
                        今日、横浜には雪が降りました
 
 
 
 
 

(475)【咸臨丸海を渡る】土居良三

 
イメージ 1 
1998年12月18日発行
中央公論社
文庫本
602ぺージ(本文574p)
1429円
図書館で借りる
 
副題が 【曽祖父・長尾幸作の日記より】
 
←この本もこのような場所にバーコードがベタっと貼ってある
何と無神経なことか。
読書家は表紙を見るのも楽しみなのであるのに。。。。
 
 
1993年 第6回 和辻哲郎文化賞・一般部門受賞
 
軍艦奉行・木村摂津守の従者として咸臨丸に搭乗、
太平洋を渡った長尾幸作の航海日誌『鴻目魁耳』―。
本書は、著者の曾祖父が遺したこの一次史料を手がかりに、
福沢諭吉ら同乗者たちとの友情、勝海舟の辛苦など、渡航のドラマを克明にたどる。
 
小説『勝海舟』を書いた子母沢寛は、
 
密航者「幸作」が三日目に発見され、海に投ぜられるところを福沢諭吉がかばって助けた
筋立てにしている。
 
昭和三十年代の後半から、勝海舟を扱ったテレビ、ラジオなどで
長尾幸作は密航者として一度ならず登場した。(密航ではないのに何故なのか?)
 
其のことで血縁である著者は嘗てNHK大阪の担当者を馬場町に訪ねたことがある。
 
応接室で待つ私の前に現われた担当者が、手にしていたのがあの『幕末軍艦咸臨丸』で、
私がそのまま引き下がったのは言うまでもない。
 
 
この、『幕末軍艦咸臨丸』という本が咸臨丸に関する最も詳細で権威のあるものとされていた。
しかし、その中にはこの「鴻目魁耳」が引用されていたのだ。
 
この「鴻目魁耳」を書いた【長尾幸作】が密航者扱いとなったのはどうやら誤解があったようだが
長くなるので割愛する。
 
尾幸作(後の土居咲吾)は著者の曽祖父に当たる。
 
幸作は、当時幕臣でもなく、藩主の命で乗組んだ者でもなく、
要するに主人持ちでない気楽さから、見聞したことを比較的自由に書く事が出来た。
 
「鴻目魁耳」とは、中国の張目飛耳という熟語の連想で日本にこのような言葉はない。
 


 
咸臨丸に乗ったのは総勢日本人が100数名、アメリカ人が10名弱。

最初、勝海舟ら日本側は、咸臨丸はオール日本人でアメリカ人は載せたくなかったらしい。
だが、結果的に、もしアメリカ人を乗せなければ咸臨丸はアメリカに就く前に時化の荒波にもまれ
 海の藻屑となって消えていたのは確実だった。

それ程、日本人は外海を航海する技術や知識は無かったらしい。

その前に、「鴻目魁耳」によれば、
 
日本を出て3日目には、日本人乗組員は、船酔いで総崩れとなり、生きた心地がしなかった中で
アメリカ人は平然として冗談を言い合い、笑うながら操船をしていた。(『鴻目魁耳』)
 
 

咸臨丸が船出するまで、困難山積みで、
 提督である木村摂津守と、艦長の勝海舟の苦労は語るに尽きる。
 
咸臨丸派遣の意義は色々あったらしいが、それを理解している人は少なく
咸臨丸を無用の長物と見做し、士官たちの待遇改善に耳を貸さず、金銭的にもかなり逼迫した。

軍艦奉行の木村摂津守は家伝の財宝を処分、3千両を用意し、更に幕府に500両を借り、
 見送りもほとんどなく品川から船出した。
 
 
時季とコース選びに失敗したため、航海は、中晴れて穏やかだった日は数日しかなかった。
 
暴風の日の「鴻目魁耳」によれば、
わが同船の人員互いに狼狽し、不撓の規律をも失し、甲板に出て動作をこなすもの僅、5人のみ。

この時に当たって、帆布を縮長上下する等の事は一切に亜人(アメリカ人)の助力を受く。

彼らはこの暴風雨に逢うとも誰も一人も恐怖を抱く者なく、殆ど平常に異なる事無く諸動をなす、

之に継ぐ者我が士人にて僅に、中浜氏、小野氏、浜口氏3人のみ、その他は皆恐臞し、

殆ど食料を用うる事能わざるに至る。

しかるに、後年の福沢諭吉は「福翁自伝」の中で、勝海舟は談話のなかで

いづれも同乗のアメリカ人の助けは借りずに日本人だけで太平洋を横断した。
 
艦長である勝海舟などは航海中、病に伏し殆ど船室でふせっていたというのが実状だった。
 
ブルックの帆船船長としてのキャリアと統率力、中浜万次郎の語学能力と船乗りとしての力量、
 
腕の良い水夫の5人。 これのどれを欠いても咸臨丸の成功は無かった。
 


 
サンフランシスコではサムライに対する好奇心と通商条約によって開かれる、
 
日本及び東洋諸国との貿易発展に強い期待を持つ市民によって
咸臨丸一行は連日歓迎攻めに会い、新聞は日々その動静を細かく報道した。
 
 
思わぬ厚遇を受けた摂津守はよく一行をまとめ、トラブルを防ぎ

歓迎攻めに、その外交センスと人柄で丁寧に応じ広く人々の敬愛を集めた。
 
 
それにより士官たちは何処でも何でも見せてもらえ造船についての見聞は有益だった。
 
この間においての中浜万次郎の通訳が非常に力になった。
 
 
帰りには天候にも恵まれ、日本人だけの手でホノルルを経由し無事浦賀に入った。
 
往きの事もあるので、「念のため」同乗したアメリカ水兵5人は暇を持て余した。
 
 
日本寄港後、幕府は、その成功を歓迎するわけでもなく、
持ち帰った海外の情報をさっそく活用しようと待つ人は無く、
それどころか攘夷熱は勢いを増し、大老暗殺後の情勢は混乱し、咸臨丸の成功に冷淡であった。
 
 
 
摂津守は帰国後軍艦奉行を務め海軍の国際的に通じる新制度を作ることに努め
 
日本海軍の骨格を作り上げることに貢献した。

慶応4年頭取を務める海軍所が官軍に接収される前、に職を辞し家督も長男に譲って隠居、
 
再び世には出なかった。
 
 
 
勝海舟は明治に入り積極的に咸臨丸の人々を新政府の海軍に入れた。
 
咸臨丸の乗員だったものは、それぞれの人がそれぞれの持ち場でそれなりの働きをして
                                             次代の人につないだ。
 
 
大宅壮一は、【炎は流れる】Ⅱの中で
 
「かりに咸臨丸が日本人乗組員だけで運航し沈没し、勝海舟や福沢諭吉が
  船と運命を共にしていたならば、幕末史と明治文化史も、かなりちがったものに
 なっていたであろう。」 。。。。  とで書いている。
 
明治以降隠居し「芥舟」と号し、痛い歴史の表面から姿を消した「木村摂津守」。
 
明治以降一見大した仕事もしないで、伯爵、枢密顧問官の栄爵を受けた「勝海舟」。
 
教育界、言論界において歴史に残る仕事をしながら、一平民を貫いた「福沢諭吉」。
 
福沢は、勝は終生相容れなかったが、木村には終生恩人として尽くした。
 
木村と勝は長崎以来43年その交際は絶えなかった。
 
 
著者の祖祖父であり、「鴻目魁耳」の著者「長尾幸作」にとって、木村は最も尊敬する主人であり
福沢は航海中ずっと兄事した仲である。
 
木村摂津守のことは、サンフランシスコに上陸したとき、ブレッティン紙が
                                  「頭のてっぺんからつま先まで貴人」と評した。
 
ドナルド・キーン氏は著書の中で
「200年余にも上る鎖国の後にも、木村のような日本人が存在しえた事実
 すなわち、外国の土地で、外国人に交じって、日本人としての自己を失わずに易々と、
 しかも相手に感銘を与えながらふるまう事の出来た日本人・・・・」と書いている。
 
 
勝海舟に関しては
数学が非常に弱いこと、船にも弱いことで海軍軍人はしょせん無理だった。
木村摂津守は勝の立場は分かるものの、たびたび困惑させられた後々に側近に、語っている。
 
 
福沢諭吉はアメリカ行きを木村摂津守に頼んだ。(福沢諭吉は大阪堂島の中津藩蔵屋敷に生まれ)
その前年の安政5年、築地の中津藩主の屋敷の小屋で後の慶応義塾の発端となる蘭学塾を
開いていた。
遇々横浜の街に出て、外商の看板を見て横文字が読めなかったことから、
これは英語ができなければダメだと思うようになった。
 
福沢は木村摂津守とは一面識もなかった。つてを頼って「木村さんのお供をしてアメリカに行きたいが
紹介してはくださるまいか」と懇願し、今でいう紹介状のようなものを持って木村のところへ行き
その趣旨を述べたところ、即刻「よろしい連れて行こう」ということになった。
 
これは驚き!!!福沢は運が良かった。
 
後に木村摂津は
咸臨丸の乗組員は船酔いで役に立たぬものばかりであったがその中で独り福沢飲み、平然とし
私の介抱をし、熱心に働いた。
いよいよ日本に帰るときは、忙しくとても土産などは買えないと諦めていたが
福沢が気を利かし、それぞれ相応なもの購入してくれたので帰朝の後、面目を施した。
 
サンフランシスコに着いた後の福沢は好奇心の塊でできる限りあちこちに出かけ見聞を広めている
 
 
 
 
このほか色々な逸話てんこ盛りで、かなり分厚い本だが最後まで面白く読んだ。。
 

              ----- 目次 -----
 
 序章    曽祖父の日記──幕末軍艦咸臨丸──
第一章  咸臨丸出航まで──軍艦奉行たち──
          別船仕立の建議
          別船仕立の実現
          ブルック大尉一行の乗船
第二章 太平洋横断の航海──鴻目魁耳──
      品川、横浜、浦賀
          冬の北太平洋へ
          ブルックと万次郎の友情
          一路サンフランシスコへ
第三章  アメリカ滞在と帰航──初めての日本人たち──
          サンフランシスコ上陸
          メア・アイランドの日々
          再びサンフランシスコにて
          帰航
第四章 咸臨丸の人々──福沢諭吉の手紙──
         
佐々倉桐太郎   中浜万次郎
          浜口興右衛門   小永井五八郎
          鈴藤勇次郎    岡田井蔵
          小野友五郎    根津欽次郎と小杉雅之進
          伴鉄太郎     赤松大三郎
          松岡磐吉     牧山修卿と木村宋俊
          肥田浜五郎    秀島藤之助
          山本金次郎    大橋栄次と齋藤留蔵
          吉岡勇平     木村と勝・福沢
第五章 長尾幸作の一生──亜行記録──
          生い立ちと勉学
          上海密行
          尾道の人土
終章   サンフランシスコ再訪
      ―― 水夫たちの墓 ――
あとがきにかえて
参考文献
文庫版へのあとがき

(474) 【孤高の鬼たち】作家の素顔 

イメージ 1
1989年11月10日第1刷
1992年6月25日 第3刷
文芸春秋社
文庫本
440円
348ページ (うち本文341p)
図書館で借りる。
 
←バーコードが邪魔><;
何故こう云う張り方をするのかなぁ~?
バーコードは裏だっていいと思うんだけどねぇ
素晴らしい表紙の絵だろうと
お構いなしに必ず同じ位置に貼ってある。
表紙が楽しみな人だっているんだから、もう少し考えて欲しい
ったく!デリカシーに欠けるんだから (。・ˇ_ˇ・。╬ 
 
夏目漱石、芥川龍之介、太宰治、谷崎潤一郎、川端康成、宇野千代、室生犀生…。
日本文学史上に輝く作家たちの日常を、その妻や子、交流の深かった作家たちななど、
豪華執筆陣が想い出をこめて描くエピソード集。
作家のもつさまざまな素顔が明かされる。
家庭人として、隣人として、友として、そのとき作家は生きていた。
 
作家が旧知の仲間のエピソードなどを書いたもので
 
書く方の作家も、紹介される方の作家も、そうそうたるメンバーで興味深く読んだ。
 
 
1 作家が描く作家の肖像

   【三鷹下連雀・太宰治】  瀬戸内寂聴
太宰が亡くなって3年後三鷹下連雀に住んだ瀬戸内寂聴が彼の残像の残る土地々や人々を語る。

  
   【隣りの“伯父さん”と私―人間・川端康成】  山口瞳
川端康成の優しさ、思慮深さ、人間の大きさが描かれてtる。
本書の中では大好きな一編。
 

   【長篇小説の鬼―小説・高橋和巳】   北川荘平
狭い原稿を押し入れの中にうず高く積んだまま鬱屈した日々を送った。
高橋と一つ違いの石原新太郎が23歳の時、「文学界」新人賞を受けた当時、ショックをうけた話など。
若い頃、「わが心は石にあらず」、「捨て子」などを読んだ。暗いこれらの物語のように
高橋和己とは暗い人間だったようである。
 

    【室生犀星の大きな愛】   萩原葉子
室生犀星は彼女に書く事を進めてくれた。犀星は父朔太郎のいい喧嘩相手でも有った。
子供の頃の自分が「可哀そうな少女」だった事。
やはり彼女はこれを題材にしか「書く」事は出来ないのだろうか
 

    【宇野千代言行録】   吉屋信子
同じ時代、同じ街に住み、親しく行き来していた宇野千代の個性を余すとこ無く描いている。
 
夜のパーティに浴衣で現れた宇野千代。
自分が親しくしていた三宅やす子と留守中、自分以上に親しくなり、
3角関係になってしまった宇野千代。
宇野千代が出版した本を2冊も年間契約させられ、出費した事。
結婚、離婚を繰り返した宇野千代を
「宇野千代の人生体験は女としての苦しみを突き抜けて生きるところに生の充実を悟ったと云える。」
             と珍しく誉めているが、その後で
いささか自己意識過剰のこの人は今までスピーチなど指名されても「あのぉ、、、そのぉ、、、私・・・」
と口ごもって、あとは「オッホッホ」と誤魔化してうやむやにしてしまうのが手だった。。。。。
 
吉屋信子と言うご仁は、人を評するとき、必ずと言っていいようにアラ探しをするがごとく辛辣になる。
 
 

  【憂国の詩人・三好達治】  河盛好蔵
折り目正しい人。身に付いた軍体調で姿勢が良く「ハイ!」と言う返事も軍体調だった。
学生時代から三好は友人に恵まれており、彼らの三好に対しての友情は並々ならぬものがあった。
三好が窮地に落ち込んだ時はこれらの友人たちが手を差し伸べた。
そして三好は、後輩にも親切だったし子供たちには非常に優しく子供たちも直ぐなついた。
だが、闘病時代は非常に我儘で友人知人をてこずらせたとも言っている
 
 
2 家族が描く作家の肖像
 
  【夏目漱石の「猫」の娘】  松岡筆子
「吾輩は猫である」に登場するトンコ。漱石の長女である。
漱石の妻が悪妻だった事は有名だが、彼女は「母が可哀そうだ」と言いながらも、
その変人振りを紹介。
 
「父がすき焼きが美味しいと漏らしでもしようものなら、10日でも20日でもすき焼きを続けます
 父もさる者で、
 こいつ、いつまで続ける気だ、こっちもこうなったら意地だ、いつまで続けやがるか見届けてやれ。
 と言う訳で素知らぬ顔してすき焼き攻めに耐えているようでした。」
 
イギリス留学から帰国した時、漱石は「精神病」に罹っていた。
   (後にこれはうつ病。と医師により診断し直された)
妻や娘に暴力をふるっていたらしい。今でいうDVである。
当時は漱石家はかなり混乱して家族は振り回されていたようだが、
こんな時代に、何の苦も無く、「吾輩は猫である」を書き続けていたそうで、
これには娘である彼女も不思議でならない。と。
 
鬱の時代を覗けば、漱石は良き家庭人であったらしい。
太ってしまった娘を見て父は多いに嘆き、
いつの間にふくれけるかなこのかぼちゃ」 と詠んだそうである。
漱石の著書、あまり読んでないが今度少しづつ読みたい。
 
母親が、悪筆だったので、生まれた子供にはせめて字が上手になって欲しいと
「筆子」と名づけられたとか。
お手伝いの人が色浅黒く、かのじょが生まれた時は、抱く人に似る、と言って彼女には絶対
抱かせなかった。という一面があの漱石にあったと云う事も面白い。
 
 
  【父龍之介の映像】  芥川比呂志
龍之介は長男の比呂志が8歳の時に亡くなった。その時の様子を書いている。
 
 

  【坂口安吾と「青鬼の褌を洗う女」】  坂口三千代
安吾との出会い、ヒロポン中毒で催眠剤乱用者でも有った。
その錯乱の様子は、下宿の先のお親も三千代も一緒になって錯乱しているようで異常。
錯乱行動の続いている時にも、作品そのものにはその影を感じさせなかった。。。。という。
 
この夫婦の馴れ初めから、その後色々書いて有る事がちょっと私には信じられなない
三千代さんと言う奥様も、かなり世間並みで無いお方だと想像する。
 

  【貧乏詩人の妻といわれて】  山口静江(詩人山口獏夫人)
本当に貧乏生活だったらしい。
失礼ながら私はこの「山口獏」と言う詩人を存じ上げなかった。
 
 
 
3 師弟が描く作家の肖像

  【太宰治のこと】   井伏鱒二
太宰が、パビナール中毒で命が危ぶまれた時、何とか入院させたのも井伏であり、また仲人でも有った
太宰が亡くなる前、衰弱の激しい太宰を見た、ある出版社の人から、太宰と一緒に、静かな山の宿に
でも行く気はないかと言う話が出、その話がまとまらないうちに太宰は死んだ。
 
「井伏さんは悪人です。」の文言には触れていなかった。
 
 

  【鬼の面―谷崎潤一郎のグリンプス】  今東光
到底自分のごとき凡人な人間は近付きがたい先生だと思った。
そのくせ、谷崎潤一郎でなければ夜も日も明けない思いをしていたのに
相手が余りにも偉大だったので取りつきようがなかった。。。。
 
出会いは街の銭湯の朝風呂だった。
その時の谷崎潤一郎は、礼儀も何もない傍若無人な悪魔のような人だった。
 
それから、しばらく後、谷崎に出入りを許され「師」と仰ぐようになってから
悪魔主義者が変貌し、少し世間並身になった行った間の谷崎を鋭く描いている
 
圧巻なのは谷崎家で仲間と話している所へ、国民文芸協会の人がやって来た、
その口上は、ちょっと高ぴしゃで有った。
 
ギョロリとした目、あの悪魔の顔が大声で「ほう、それで何かね」
「賞金と記念品を持参いたしました」
 
すると先生は大喝するように
「ふん。あの小村欣一の馬鹿が俺の作品を審査したのかね。
 あの文学なんか分からぬ奴が、俺のものを審査するなんて僭越の沙汰じゃないのかね」
 
    ―― 色々やり取りが有って ――
 
「俺は政府の役人や、その他の奴等に誉められなくったって何の痛痒も感じないんだ。
                         僕を認め、僕の作品を愛してくれたのは民衆だよ」
「仰せのとおりでございます」
「賞金はいくらだね」
 
水引のかかった のし紙をべ利べりと乱暴に引き裂くと、百円紙幣が1枚入っていた。
僕(今東光)はギョっとした。
その頃の一般平民がデパートで百円札で買い物をすれば姓名と番地を期されたもので
僕は見た事も無かった。
 
先生はそれを丸めて袂の中へ放り込むと、「どぉら」と言いながら時計を受け取られた。
先の如く包み紙をひんむくと、ケースの蓋を開けたが、あんまり強く開けたので
                  ビロードを張った蓋は無残にも反り返って、だらりと下へぶらさがった。
中から金時計をつまみ出すと、「ふん」と苦笑され、次に、例の大声で、
「お千代、これをやる。お前の持っている奴より悪いけどな」、と言うと邪険に放り出した。
 
すると金時計はころころと転がって行って縁のところで敷居にこちんと当たったが
パクリと蓋が開いてやっと止まった。
 
先生は見向きもしないで先ほどの話の続きに入っていった。
 
使者としてきた久米さんは見るも惨憺たる顔をし、その色は赤を通り越して煉瓦色となった。
 
谷崎先生の場合は徹底した俗物精神排除者で、
国民文芸協会などと言う存在は歯牙にもかけていなかった。
 
 
その後の話。
今日の先生は芸術会会員で文化勲章を授けられても、莞爾として笑って受けられるほど、
                                 寛仁になられたのも、お歳のせいであろうか。
 
今東光が谷崎を師と仰いでいる事を知った時はとても驚いた。
「今東光」自体が八方破れな人なので、その今東光と谷崎とはどうも結びつかなかったが
この小文は、今東光の谷崎に対する尊敬と愛情とがいっぱいあふれており、
本書の中で一番好きな「作品」である
 
 
  【枯野の人・宇野浩二】     水上勉
水上と宇野浩二との出会いは、宇野は作家とし、水上は編集者として勤めている頃に始まった。
宇野は気難しく、お手伝いは殆どやめてしまい、誰も居つかなかった。
水上はそんな宇野の口述筆記をやった。勿論無給だった。
 
有る時、先生(宇野)から手紙をもらった。「・・・・あなたの顔を見たくありません」
  先生は私の着ているシャツが破けていると云ってラクダのシャツを下さった
  アパートに火の気がないと云って、「炭俵を持って行け」と夫人に命じられたそうである
  外で呑まないでうちで少しづつ飲むようにしろ、と言って焼酎の差し入れを受けていた。
 
私は荒れ果てた。
私の生活が堕ちてゆく一方なのを見ていて毛、我慢がならなかったのだろうか。
 
先生と会うのが嫌になってよその町のアパートへ引っ越した。
 
其のアパートで喀血した。
ちょうど田舎に預けて有った娘が来ていて、私は某女と3人暮らしで有ったが
生活は苦しく、医者にかかる金も無かった。
 
宇野先生から手紙が来たのは引っ越しから1年位経ってからである
「その後音沙汰がないがどうしているか、、、、と。。。
最後に書いて有ったのが、「小説のことお忘れなく」 と小さい字で付けたしてあった。
 
ある日、寝ている所へ娘が入って来て「父ちゃん、父ちゃん、爺ちゃんが来たよ」
跳ね起きて行ってみたが誰もいなかった
「爺ちゃんが置いて行ったよ」
     一冊の本が置いて有った。「わが師わが友」と言う本で有った。
3,4人の執筆者の中に宇野先生の名前も有った。
 
扉を開けると「水上勉様」と見慣れた大きな楷書体の字が書かれてあった。
「先生が来たんだ!」熱がありふらふらした体で追いかける事は出来なかった。
本をペラペラとめくった。パラリ都布団の上に千円札3枚が落ちていた。
 
娘が、「部屋を間違えて2階に上がって爺ちゃん管理人に叱られて、ここにきたのよ。
                                     爺ちゃん買物篭下げていた。」
この当時三千円あればひと月暮らせた。
 
その後紆余曲折があり、二人の間には長い間の空白が有った
 
その間水上は小説を離れ、繊維業界などで働いた時期も有った。
 
そして水上が小説を書くようになり、再び親交が続く。
 
この後宇野浩二が亡くなるまで親交は続くが水上は宇野を親のように大切にし
宇野は水上を愛情あふれる目で見守る。。。。
 
口うるさく、気難しい、師と、不肖の後輩の二人の不遇な時代から、
 
後輩も師が願った小説家となり、師の晩年までの話。
 
寝ながら読んだが、感動し、暫く眠れなかった。

(473)【女の宿】佐多稲子

イメージ 1
 
 
 
1990年7月10日第1刷発行
講談社
文庫本
256ページ(本文226p)
800円
第2回女流文学賞受賞
 
図書館で借りる
 
大阪に住む友人の女流作家とその義妹の家に宿をかりた私。
そこに偶然訪れた2人の女客。隣家から響く無遠慮な女の声。

さりげない日常の中に、時代の枠に縛られながら慎しく生きる女たちの
不幸と哀しみとを刻み込む、 女流文学賞受賞作「女の宿」。

ほかに名篇「水」、「泥人形」「幸福」など、人々の真摯な生きざまを見事に描き上げた13篇を収録。
【水】   これが読みたくて収録されている「女の宿」を借りた。
少女が、上野駅のホームで泣いている。
背をこごめ、自分の膝に乗せたズックの鞄を両手に抱え込んでその上で泣いていた。
  
すぐ頭の上の列車の窓から、けげんな顔で人ののぞくのも知っていたが、どうしても涙はとまらず、
そこよりほかの場所に行きようもなかった。・・・
 
幾代という少女は、ひたすら泣いている。なぜに、こんなにも泣くのだろう?
幾代の左足は、少し短い。だから、歩くときにぴょこんぴょこんと左肩が下がってしまうのだ。
そのために、子どもの頃、幾代は男の子たちにからかわれた。
そんな幾代を必死にかばうのは母親だった。
母親は大声でわめいて石を投げつけて男の子たちを追い払い、
幾代に「あんたの足が悪いのは自分のせいなのだ」と泣いて詫びるのだった。
 
毎月少しでも母親に送金できる、それが幾代の楽しみであり、心の支えだった。
ところが、ある日、旅館に一通の電報が届く。
 
幾代の母の危篤を伝えるものだったが、
勤め先の主人は「どうせ今から帰っても間に合うまい」と休みをくれなかった。
その後直ぐ、母の死の知らせが来た。
そして、今、幾代は、郷里に向かうべく上野駅に来ているのだった。
その郷里にはもう母はいないのだ。
ふと母親の横顔が目に浮かび、幾代はもう我慢できず、
そこにしゃがみこんで、ただただ泣くのだった。
 
視界をさえぎっている先発の汽車がゆるゆると動きだす
彼女は立ち上がり汽車とは反対の方向に向かってホームを歩き出す。
その先には駅員の詰所があってそこの水道の水が先程からあてもなく流れ続けている。
彼女はそこまで歩いてゆくと蛇口の栓を閉める。
勢いよく流れ続けていた水が止まる。
汽車はホームを離れ、そこにいままで汽車によってさえぎられていた街の眺めが一挙に展がる。
無意識に一連の動作をおこなった娘にその街の眺めは見えてはいまい。
娘はまた元いた場所までもどってしゃがみ込み、また同じように泣きつづける。
「その場所に、さえぎるものがなくなって春の陽があたった」。。。。
 
最初の出だしを読んで、何故人目のあるところでしゃがんで泣くのだろう?と
いびかしがりながら読む。
読み進むに従って、主人公の悲しみが深々と胸に沁み込んだ。
著者の書いたものはまだあまり読んでいないのだが、読むたびに彼女のファンになってゆく。
 
【泥人形】
脳の弱い敏子は、母親や兄や姪に下働きのように扱われるが、
敏子が四十代の若さで脳溢血で死んだとき、姪のひろ子は骨壷を抱いて、
はじめて叔母にはずいぶん世話になったと思い、
    弱い人間に向かった時の普通の人間の不遜を恥じるのであった。
 
このほか数編の物語が収まっているが、その中でも「水」、「泥人形」の2編が印象的で
中身は重いけど、胸にジンと来るものがあった。
 

(472)【星への旅】吉村昭

イメージ 1
 
 
 
 
 
昭和49年2月22日発行
平成 5年2月25日 21刷発行
平成 7年3月15日 23刷発行
新潮社
文庫本
本文319ページ

図書館で借りる
 
 
平穏な日々の内に次第に瀰漫する倦怠と無力感。
そこから脱け出ようとしながら、ふと呟かれた死という言葉の奇妙な熱っぽさの中で、 集団自殺を企てる少年たち。
その無動機の遊戯性に裏づけられた死を、冷徹かつ即物的手法で、 詩的美に昇華した
太宰賞受賞の表題作。
他に『鉄橋』『少女架刑』など、しなやかなロマンティシズムと それを突き破る堅固な現実との
出会いに結実した佳品全6編。
六編の作品が収められており、全て「死」をテーマにしている。
 
星への旅」(太宰治賞受賞)
自殺する理由などは特に無く、「集団自殺」を敢行する若者達が
其々の若者たちが、お互いにどこまで本気なのかを探り合いながらも
幌付きのトラックで死に場所を探して移動し、一人減り、二人減り。。。。
多分途中で思いとどまるのだろうと思ったけど、結局皆星になる。
 
少女架刑
十六歳で死んだ少女の死体が解剖される話。
貧困家庭のため、死体は大学病院に三千円で売られ、
解剖されていく様を「少女」の視点から綴っている。
臓器や骨格を少しずつ剥ぎ取られ、医学生の解剖実習のメスを何度も受ける彼女が
「私の体の役目は、まだ終わらないのか・・・」とつぶやく。
 
石の微笑
墓場から石仏を集め売る友人と出戻りの姉との関係を描く。
ちょっと可笑しい。
 
透明標本
人体骨格の透明標本を作ることに執着する男の話。
 
鉄橋
あるボクサーの轢死から始まり、轢死に終わる。
途中、推理小説風になるが、結局は轢死。
 
白い道
空襲後の話。所々に死体が転がる道を帰る。
     

死を、テーマにした読み物とは思わなかった。
タイトルが何ともロマンチックなので、単純に借りて来た。
え!、という感じ。。。
しかし、「少女加刑」は読んでいた。かなりグロテスクな描写が出てくるし
解剖されてゆく少女の視点で描かれているのでチョット引き気味。
しかし、不思議と嫌な感じではないのが不思議。
プロフィール

kinako

最新コメント
メッセージ

名前
メール
本文
読者登録
LINE読者登録QRコード
RSS
アーカイブ
ギャラリー
  • (1134)【ひとたびバイクに】山田深夜
  • (1133)【用事のない旅】森まゆみ
  • (1132)【里山っ子が行く】斎藤道子
  • (1131)【頭の旅】外山滋比古
  • ヨーグルトナッツとソルティライチ
  • ヨーグルトナッツとソルティライチ
  • ヨーグルトナッツとソルティライチ
  • 西方寺の曼殊沙華
  • 西方寺の曼殊沙華
  • ライブドアブログ