1986年 4月21日第1刷発行
1989年10月20日第2刷発行
講談社
単行本
1989年10月20日第2刷発行
講談社
単行本
222ページ(本文215p)
1240円
待望の最新エッセー集〈1979〜1986年〉。
女の立場から、文学について、精神の体操、ショートショート等37篇。
倉橋由美子独自の文学世界を映して現実をシニカルに透視する。
倉橋由美子著書は全く読んだことがなかった
いいなぁ。と思うところは、「読者は勿論出版社、もっといえば世間に媚びない、迎合しない所。
厭だなぁ。と思うところは、毒のばら撒きが広範囲、強烈過ぎドン引きしてしまう所。
「あとがき」から抜粋してみよう
実を言えば私は心身ともに病気なのである。
心の方は昔から「嫌人症」で、
( 単に人嫌いを嫌人症とはさすが倉橋先生(^m^) )
これは持病だから死ぬまで治りそうにない。
一方、体は悪いとこだらけで、人に吹聴してみても、同情を買うより相手を不愉快にさせるだけなので
これまで、体のことについては殆ど書いたことがない。
まして病苦の詳細を執拗に書き綴ったり、闘病生活を微に入り細を穿って報告することで
人の関心をひいたりするようなことは論外だと思っている。
病気を始めとする個人的な不幸は、
医者その他しかるべき人以外の他人に訴えるべきものではないと思っている。
自分の病苦と貧乏、それに女性関係のトラブルなどを洗いざらい書いたのを売り物にしていた昔の
私小説などは、言葉の反吐のようなもので、とても読む気にはなれないものである。
( これは耳が痛い人がいっぱい!かつて一時代を築いた多くの作家が当てはまるでそ(ノ∀`)σ )
父は51歳にして突然心臓が停止して急死した。私もその年齢に近づいており、
欠陥心臓や高血圧もちゃんと受け継いでいることが明らかになってみると、
今後は自分の体は「高所に置かれた卵」のようなものだと覚悟するしかない。
嫌なことを無理強いされてストレスがかかるのは何よりも禁物なのである
後は本当にしたい仕事をすることだけに、残された時間とエネルギーを使いたい。
( 病気がなくても或る程度先が見えたら同様な心境になると思うなぁ )
学者、小説書きなど本来の仕事が有る人で、何十冊もの随筆を書き残している例をみると
生活の都合が有ったからにしても、埃に等しい自分の身辺雑記をよくもまあこんなにもせっせと
金に換えたものだと索然たる思いがする。
( これは、まさに後に出てくる、「裸の王様」的発言と思われ・・・ (ノ∀`)σ )
気になって、「倉橋由美子」をウィキペディアで調べてみたら・・・・
1953年生まれ。
2005年6月10日、拡張型心筋症により69歳で没した。
翻訳『新訳 星の王子さま』が遺作となった。
お亡くなりになっていたんだ!<(_ _)>合掌。
なるほど。。。。
何事も、「覚悟」のある人は生き方がハッキリし、迷いがなく、物おじせず、云わば怖いものがない。
しかし彼女の「歯に衣着せぬ」物言いは、生来のものだろうと思うがそれが「終わり」が見えてきて
それに拍車がかかったのだろうと思う。
「裸の王様」症候群。の章では
その家なり、文壇なりに所属しない余所者が外からとやかく批判するのは余計なことである。
又逆に外に向かって身内の悪口を言いたてるのも見苦しい。
「内部告発」などと称して正義の徒を装うよりは、なりふり構わず「内ゲバ」にでも熱中する方が
世間に対する礼儀に適っている。
----略ーーーー
文学の業界にも裸の王様は横行している。
この王様、裸の胸に勲章をつけるのが大好きらしい。他人が持っていれば自分も欲しい。
そこで王様達は「勲章を授与する会」を意くるも作り、互いに功を称え合い勲章を授与しあう。
この互助方式はうるさい王様達を抱えたこの業界を丸く収めるためのまことに合理的な工夫である
--- 略 ----
文学としては60点でもそれが今年の最高なら堂々の受賞となる。
賞を与える以上は文学として二流か三流かなどと決めつけるのは野暮というもので
まわりで、手が痛くなるほど拍手をしてやれば、知らない人は大傑作が現れたのかと思う。
-----略ーーーー
結局今回受賞するに最もふさわしい人が(作品が、ではない)受賞することになる。
ー----略ーーーーー
勿論、読者もまた「裸の王様」にすぎないことが有る。
-----略ーーーーー
かつて山本周五郎は直木賞を辞退した時に、自分には読者がいて、褒美ならその読者から既に
十分貰っているのだから賞などは面映ゆくて頂戴いたしかねる、という趣旨のことを述べ
以後彼はこの原則で一貫して賞というものを一切もらわなかった。
-----略ーーーーーー
賞を辞退する行為はどの理由を述べても見ても素直には受け取られにくいものであるし、
本人も表向きの理由とは別に腹に一物あることが多いのである。
と、かなり強烈なアッパーを食らわしている。そして最後に
自分が裸であることを知っておいた方がよい。そのうえで何をしようと勝手である。
自分さえ恥ずかしくなければ。。。。
(>▽<)キャハハ~あんまり大声で叫ぶと、こだまが返るド~!
タイトルの「最後から二番めの毒想」は
サティの愛好者ならすぐにお気づきのことと思うけれども、
これは サティのピアノ曲「最後から二番目の思想」 によるものである。
このあと何冊もエッセー集を出す力はもう残っていないように思われる。
倉橋由美子の著書を読んでみたいとも思ったけど、
どうも私の苦手とする分野が多いので今はやめておこう。
しかし、結構エッセーなども多く書いているみたい。。。。
よそ様のことは批判しているんだけど、自分は別格なんだろうなぁ
そうよね、作家がいちいちモノを書くのに
自分を顧みたりして、小さなことを気にしていたら書けないものねぇ。
倉橋由美子先生の「覚悟」は並ではなかった。立派!
最後にもう一丁!(かいつまんで抜粋)
予習はやったことが有るが復習はやったことがない
学校では教室で教わった事はその場でわかるのが正常で、
復習しなければいけないようでは既に異常である。
本当の勉強は、学校の教科書の予習でも復讐でもない形をとるのではなかろうか。
もともと女性にはユーモアが無いのが正常である。
ユーモアのある女性などは深海魚のように得体が知れなくて薄気味悪い
女性に有れば良いものは愛嬌と機知である。
ユーモアと口髭は男にだけ似合うものである。
いやはや・・・・(↑▽↑)