2011年06月

【新潮】2010年5月号

イメージ 1 平成弐参年5月7日発行(4月7日発売)
新潮社
雑誌
324ページ
¥1100円

アマゾンで偶然 発~見!
たまたま図書館で目に飛び込んで来たのを、これ幸い、とばかりにCDと一緒に借りた。

谷崎のCD,面白かった~

老人が少しの嫌らしくなく聞こえてしまうのは私だけだろうか?

谷崎は敢えて、おちゃめっぽく演じたのだろうか?

ま、面白きゃいいんだけどね。これ本は漢字とカタカナだけだから読みにくそうでちょっと躊躇うけど

これ全部聞きたいよな~、多分一部だけだと思うので。

朗読を聴くのっていいもんだなぁ

図書館で借りられればいいんだっけどね。都筑は置いてないみたい。


http://blogs.yahoo.co.jp/harikonotori/64831953.html
配役
仰木監助・・・・谷崎潤一郎
老妻・・・・・・紅沢葉子
長男の妻颯子・・淡路恵子
長男淨吉・・・・田辺皓一
娘・陸子・・・・片岡愛子
春久・・・・・・金内吉男
子供・・・・・・久松夕子
音楽・・・・・・武満徹

1962年3月TBSラジオ放送を
1984年12月21日にキングレコードからLP2枚組。カゼットテープ2本組で発売されました。

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(*゚Д゚σ 凄いもん見~っけ!

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アマゾンでほしいと思った本を検索していたら、トンデモナイものを見つけてしまった

「新潮」5月号

特別付録CD

音声劇 「瘋癲老人日記」

    原作・主演 谷崎潤一郎

これはもう買わなきゃね!

でも待てしかし、5月号なのだよ。。。。既に6月号も出ている

調べたら、発売当初から完売必至とみられていたらしい

在庫ゼロ。

アマゾンで検索したら、定価 千百円のものが、プレミアが付き、たった一月で1万6千円ですと!(*□*)

買えまへん ┐(-o-)┌ 諦めました。(諦めがよござんす)

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そんなことも忘れて本を返しに図書館に行った。


図書館では、返却されてきた本を書棚に戻す為、移動式の小さな棚に乗せ、

入口正面の、貸出窓口の横に置いてあり、

普通の書棚に並べるように縦に背表紙だけが見えるように納まってるのだが

何と、その黄色い表紙の「新潮」だけが、ペタンと平置きしてあったので目に飛び込んだ訳。


(*゚Д゚σ あの黄色い表紙だ!「新潮 5月号」ではありませぬか !

うひょひょ~♪ 近くにいた係りの人に「付録のCDもお借りできますか?」

本と一緒に、奥からCDを出してくれた。別に借りることになっているらしい。

ひゃくまんえん位トクした気分で意気揚々と引き上げた

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「瘋癲老人日記」は、

Mっけのある老人が、同居している息子の嫁に色気を感じ、何かとちょっかいを出したがる

嫁は面白がって老人の誘いに乗りそうなそぶりを見せながら・・・という話。

台本も載っているがそれだけを読むと、評判通りエロ爺の話で何気にイヤラシイ感じがする。

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想像とは全く違ってた

そっか~、谷崎センセはこういう感覚で読んでほしかったんだ~


声は老人だわね。70過ぎなんだから、口も少々トロいし、

朗読は棒読みだし決してうまいとは言えない


しっかし!!面白いんだなぁ。セリフになると、俄然頑張る、おちゃめなのだ。

まったく、老人のネッチリとして嫌らしい感じは受けず、笑っちゃうのだ。


嫁役が、谷崎が御贔屓だった、という「淡路恵子」これが、また超!いぃんだな~♪



そして、このCDを聞いた、河野多恵子、桐野夏生、いとうせいこう、町田康、朝吹真理子、

サイモン・マクバーニー、多和田葉子、氏などの感想が載っている

湯浅学氏のなんか凄い!良く文章に起こせたと思うくらい

ふざけ切って禁句の羅列、よくこれを載せたと思う、そんくらい酷い。

総じて、いいのか悪いのかわからないような批評が多かったが、受け方様々で面白い

みなさん予備知識が多いせいか、相当イヤラシく受け止め聴いているのが意外だった。

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これほど谷崎に興味があるのに、σ(・.・) が読んだものと云えば、

「少将滋幹の母」、「蓼食う虫」、「途上」位で、脂の乗り切ったころの代表作と言えるものは読んでない

この「瘋癲老人日記」は、モデルと言われた「渡辺千萬子さん」の著書も読んでいるので

是非読みたいとは思っていた

が、全篇、これまた漢字とカタカナだけで非常に読み難そうなので二の足を踏んでいたところだった

このCDを聴かず本を読んでいたら、全く違う感じで受け止めただろうと思う。

ナルホド、なるほどね、そっか~、そうなのか、活字だけでは醸し出せないものってあるんだ・・・

谷崎潤一郎がこれに挑んだ訳がわかるような気がした。

とても大きな拾い物をしたようで、なんだか嬉しいのでした。

                              チャンチャン!

(270)【谷崎家の思いで】高木治江

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1997年6月30日第1刷発行
構想社 単行本
225ページ 980円

図書館で借りる

【著者のプロフィール】
明治40年(1907年)大阪市で長女として生まれる
昭和4年(1929年)大阪府女子専門学校(現・大阪女子大学)英文科卒業。
同年3月から5年8月まで谷崎潤一郎の助手として住み込む
同12年2月高木晋一郎と結婚3児を設ける
47年9月5日(1972年)、乳がんのため死去。65歳。


本著は周囲からの勧めもあって、昭和44年から書き溜めたものの、

最終章に届かぬまま病に倒れ未了のまま終わっています。


これまで読んだ谷崎に関する著書の中では最も古いもので谷崎の人間性を一番伺い知れる気がしました

彼女は生粋の大阪人で、時々出る大阪弁がなんともリアルで面白い。

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最初に、谷崎と会ったのは友達のところへ谷崎家から食事の招待があり

「大阪のお嬢さんを数人御一緒に」と云うことだったが

後の事を考えれば大阪弁の助手を選ぶためだと思われる。

迷った挙句、友達の添え物のつもりで行った。昭和3年12月の事だった。


翌年1月下旬、谷崎から「5日間ほど泊まり込みで大阪弁の手伝いをして欲しい」、と手紙を受けるが、

父親は大反対し、断りに彼女を連れ、谷崎宅まで行く(怪しげなものを描く作家、との思いがあったのだろう)


座敷で待つ間、父は床飾りの趣向を眺め回し、掛け軸を試すすがめつ眺め、

「こりゃ立派なものや。管楯彦やないか。」しばらく眺めて今度は娘人形を見て

「これは文楽やないなぁ淡路のような気ィする――」など独り言を言いながら、欄間や長押を見まわしている

そこへ谷崎が現れる、

父は挨拶をした後、絵を褒め、その後も文楽の事など父が一人喋る

谷崎は厭な顔一つせず、相槌を打ちながらニコニコと聞いている

「それでは娘をよろしいに」、と云う挨拶を父がする。

いつどの辺で父の考え方が方向転換したのか、見当がつかなかった。

父は、駅まで送る道々彼女に、
わしは頭が下がった。
偉い先生や思てたからどんなに派手なこっちゃ思てたけど、
家では仕立て直しの久留米絣を着てるやないか。質素なお方や
それでいて楯彦の軸を眺めて優雅な暮らししてはるのに感心した。
   ―― 中略 ――
大阪のお手伝いさしてもろて、五日経ったら帰してもらい。
朝日新聞の「ナオミ」(痴人の愛)読んでる時、こんなこと書く人、どんならん思たけど
全然「作品」やったんや。
質素な家風見習わしてもろて、五日経ったらきっと帰ってくるんやで」

谷崎の助手になり「卍」の途中から、助手を務めることになる。

この時点で谷崎は(多分)この父娘を気に入り、

「五日経ったら帰って貰うが、お父さんに話して「卍」が済むまで住みこめるよう、
                            
                              お願いしてくれたまえ。たのむよ」

そして三月から本格的に住み込むようになる。


この頃の谷崎家は

谷崎夫婦、その娘鮎子、千代夫人の養母、じいや、そのほか女中が三人。大所帯である。

千代夫人は、

以前は芸者だったというが、全く玄人のような所は無く、酒、煙草はたしなまず、時折手習いをし、

万葉集を置いて読む姿も見た。

関東人らしく歯切れがよくテキパキしているが差し出がましい事は無く、誰にも優しく気配りがよく、

料理もうまく、決して出過ぎず、非常に出来た、美しい人であり、

面倒見がよく、人に警戒心を抱かせないので、谷崎の弟妹は母親のように慕っていた。



著者は、

この千代夫人が、谷崎と佐藤春夫の間で交わされた「妻譲渡事件」の始終を見、

三度目の夫人の松子と谷崎の出会いのころからも見ており、

自分の同窓生の「丁未子」と谷崎の二度目の結婚は周囲全員が反対する中、後押しをしている。

結局は惨憺たる結果になるのだが。

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これを読むと「伊吹和子」氏の著書の中の谷崎とは受ける感じが違う

著者はまだ大学を出るか出無いかの若さで世間知らずでもあり、素直さもあったせいか

谷崎も構えず、懐深く彼女に接している。


伊吹氏との扱いは天と地の差がある。

伊吹氏は生粋の京都人。著者は生粋の大阪人。何となくわかる気がする。


人間は鏡のようなものであり、自分の姿勢が相手に反映される事が多々ある。


伊吹氏の頭の良さ、仕事の腕、谷崎は、すべて認めながらも相性は最悪だった。


著者は谷崎に対しても緊張はあるが、臆せず、ストレート、読んでいて笑えるところもある


最も伊吹氏は、谷崎が大成功を収め、押しも押されもせぬ文豪の頂点と云ってもよい頃に

「口述筆記者」とし、請われ、その仕事のみを彼女も頭に描いている


著者の場合、「大阪弁のお手伝い」(大学の先輩が結婚し、その代わりの要員となる)とし、住み込み、

言ってみれば秘書的な存在なのだが、そういうプライドは意識してない。

その上、谷崎はすでに売れっ子作家であり世間からも文壇からも一目置かれてはいるものの

まだ晩年のような傲慢さは無いし、

また、千代夫人と松子夫人と云うそれぞれの主婦が切り盛りする環境の違いも有るのではないかとも思う。

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何の懸念も無く周囲の人物へも、フィルターを通すことなくストレートに描かれており馴染める内容だった。


あと書きで彼女の同窓生も書いているが
当時、わずか21歳か22歳の若さでよくも「三人の夫人」の、真の姿を正確に把握しており
千代夫人の事をあのように深く掘り下げて観察されていた事に驚いた。

彼女が本書を書き始めたのは60歳過ぎだが、その基盤となったのはやはり21歳の
頃の谷崎家に寝起きを共にしていた頃の確かな観察眼だと思う。
とあるが、全く同感で、本書が未了で終わってしまったのは誠に残念であります。

本書は著者が亡くなって25年経ち、漸く日の目を見たのであります。

面白かった~ (o^-^o)

(269)【妻を看取る日】垣添忠生

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2009年12月20日発行
新潮社 単行本
173ページ 1300円

新聞に連載されていた「時代の証言者」を時々読んでました
このシリーズも毎回読んでいたわけではなくたまたま最終回に近い章を読み
何か身につまされるものがありまして、図書館で検索したら著書があったので、借りました。

副題が
【国立がんセンター名誉総長の喪失と再生の記録】

氏は立場も押しも押されもせぬ地位も名誉もお金もあり、奥様も聡明なかたです

それらを除けば我が家と非常に似たものがあり他人事とは思えません

本を読んでいたら、珍しく夫が「新聞に連載されていた人だろ?」と尋ねてきました

夫は私がどんな本を読もうとあまり興味を示しません。趣味や興味が全く違うのです。

ましてやこの手の本はどちらかと云うと「嫌い」の方でしょう

彼も新聞の「時代の証言者」をたまに見、ウチと似てるなぁと思ったそうです。


たまたまこの日、夫の用事に付き合い車に乗っていた時の事、

σ(*・Д・)「左(車線)ずーっと空いてるよ」

σ(夫゚д゚)「車止まってない?」

  とか、駐車場から道路に出る時(いつも渋滞するところ)

σ(*・Д・)「それっ!今だ!」

夫は爆笑し、「新聞の垣添忠生さんの奥さんもそうなんだってな~(^▽^)アッハハ~」

「自分で運転しない癖に、結構指図します」と書いてあったっけ^^;


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私が(垣添氏)が彼女に熱を上げたものの二人の環境がまるで違う

もちろん私の家族親戚全て大反対!で四面楚歌、時間をかけて説得を試みたが

母が、「その人と結婚するならば私は自殺します」とまで言う始末
私は傘1本持って(雲行きが怪しかったから)彼女の家に転がり込み、その日から一緒に住み始めた
駆け落ち同然に始まった生活は実に楽しかった

結局親の方が折れてくれた。
「一度二人で遊びにいらっしゃい」家族に紹介し、晴れて夫婦として認めてもらった

           ―― - ――

私たちは結婚して40年、まことに平和で幸福な生活を送って来た。
子供のいない私たちは、常に二人で行動し、互いに欠けているところを補い合い、
人生の困難に立ち向かい、そして人生を楽しんできた
妻はどんなときでも、私が仕事にうち込み、全う出来るよう私を支えてくれた。

ようやく時間的にゆとりが出来、今後は国内外あちこち旅行しようという矢先に

奥様ががんを発生。

紆余曲折があり、病と戦ったが御主人を残して先に逝ってしまわれたのである

その喪失感、想像するにあまり有り、読んでいて涙が止まらなかった
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      ――― 奥様は大晦日に息を引き取られた。―――

一人で妻を看取り人ひとりで野辺送りをしようと決心していた

正月を挟んで1月4日に葬儀をした、

一人でいると、弟夫婦がたまたま聞きつけ、どうしても、と言って見送りに加わってくれ、

三人で妻の骨を拾った。



国立がんセンターの総長を退職したのが2007年3月

その年の暮れに妻は亡くなった。

折角これから二人で楽しもうと思っていたのに・・・・
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彼は喪失感の大きさに押しつぶされ「鬱状態」になり体重はガタっと減っていく

だが幸い立場が立場だけに、退職はしたとは云うものの、国内外を飛び回るほど仕事が忙しく

徐々に立ち直って行く

今は奥様と楽しまれたカヌーや山歩きなどをおひとりでされている
道に迷えばどこからか小鳥が目の前の木の枝にとまり
喉の奥まで見えるほど黄色い嘴を大きく開け、チュルチュルと鳴く
「こんなとこでなにしてるの?しっかりして」と妻が励ましてるように聞こえた。
とか
わざと険しい山に登ったもののあまりの悪条件にイヤになり、ふと立ち止まると
ハイマツの茂みから褐色のナキウサギが飛び出してきた
私の袖に触れるように駆け抜け、反対側のハイマツにサッと身を隠す。
「あっ!妻だ」私はとっさに思った。妻が激励に出てきてくれたのだ。
この一瞬で私は再び気力を取り戻し無事に登頂することが出来た。

あんな形で姿を現すのは妻の化身としか考えられなかった。

頭の片隅では勝手な思い込みだとわかってはいるが私は実際励まされたのだ。
こんなことが何度かあった。

こうして様様な場面で妻が現れ、一体感を感じられた事は、

私を精神的に癒してくれたし、気力を取り戻す大きなきっかけともなった。

どんな非科学的なことであっても、当事者には特別な意味を持っているのである。
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私は、この奥様ほど賢くも無く、今としては職も無く、友達と言える友もいない。

たまにお茶を飲んだり電話をやり取りする若い頃の友達もいるが、

あくまでも茶飲み友達であり、

イザと云う時に精神的に慰めになるか?嘆き愚痴をこぼせるか?といえばそうでもない。

大体、過去の経験から、良い時には親類縁者は行き来したり愚痴をこぼせる相手になりうるが

切羽詰まりあとが無い時には、何んとなく距離を置くものである(私の場合)

独りの時は友もおり、支えあったこともあるが、

「人間イザとなれば独りなんだ」、という事を痛いほど味わっているので、

この期に及んで人を頼ろうという思いは無い。

本書の中に奥様に先立たれ、「自死するわけにもいかないから生きているだけ」

と有ったが、まったく同様の思いの時期が私にも有り、

そんな時の恐ろしいくらいの孤独感と

そこから這い上がるのが、いかに大変で重いものがあるか身をもって理解できる

私は、もう二度とそんな思いはしたくないのである

子供でもあれば、また、悲しみを共有できる人がいれば話は別なのだろうけれど・・・

私たちには、そういう人がいない。

(著者は地位もあり友人もあり励まし癒してくれる友人も大勢いたのにこれなのだ)


だからこそ、今は何も不満の無い生活の中で、何よりも恐ろしいのが

全身で寄りかかり、頼りきっている夫に先立たれる事である。

私は何が何でも「お先に失礼<(_ _)>」する気でいるので、

後に残った夫の事を考え、常に身辺整理を怠るまい。と心がけている。


遺言もPCの私のファイルを開けると直ぐわかるところに書きとめた。


そんな私を知ってか知らずか、夫は私が不用品整理をしだすと厭な顔をする

だから夫のいない留守にちゃっちゃっとやる。何を捨てても夫は気がつかない。


一緒になりたてのころは姑の事やその他もろもろの事でぶつかったこともあり

夫の些細なことが気に入らなくて思い悩んだ日もあった。

だがここに来て感謝こそすれ、夫に対しては不満の一つも無く

ただただ感謝し、

生きてるうちに愛情のすべてを捧げていこう、

動けなくなって思い残すことが無いように。と思い充実した日々を送るべき ――


これは私が少々体調を崩した時に考え、それから心がけている事。

今のところ二人とも何とか健康で切羽詰まってはいないので

なかなか言うは易し。というところはあるけれど、一応はそんな思いで日々送っています。



この本を読み、「千の風になって」という歌を思い出しました。

垣添氏を取り巻くすべて、ナキウサギも、チュルチュル啼く鳥も、蝶々も

千の風になってやってくるのだと思います。
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(268)【落下流水】渡辺千萬子

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2007年4月20日第1刷発行
岩波書店 単行本
165ページ1700円

図書館で借りる

副題が「谷崎潤一郎と祖父関雪の思い出」

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谷崎潤一郎ー渡辺千萬子往復書簡(2001年)を出した後6年経って出された本で

「往復書簡」で公開しなかった手紙も公開している



「渡辺千萬子」は、

大正昭和にかけ、関西画壇の重鎮であった日本画家、「橋本関雪」の孫として京都に生まれ育ち

結婚し、下鴨の潺湲亭で義父谷崎潤一郎やその家族と4年間暮らしていた。


本書の5分の1ページを彼女の生家やその環境生い立ちなど、あとは全て谷崎関連です。

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彼女と谷崎のやり取りは「往復書簡」(本)に書かれているが、そこには載っていなかった事、

二人の姑「松子、重子姉妹」の事と、「仏足石」の事、瘋癲老人日記のモデルについて、をストレートに語っている。


【重子の事】
(谷崎の妻、松子の妹。松子の前夫の子供を養子にしており、その一子、清治と結婚したのが千萬子。
 従って戸籍上は千萬子からみると谷崎は伯父に当たるが事実上は義父。
 千萬子には姑が二人いた事になる)

重子は晩年は酒びたりになり66歳で亡くなっている
千萬子は見舞に行こうと思い、食べたがっているという大阪の食品を整え、広尾の日赤に行くが
すでに亡くなっていた。

重子の娘、恵美子(松子の娘を養女にしている)はマンションには入れたくないというので、
湯河原の谷崎邸に安置することになっり、車で搬送することになったが
誰も付き添うという人がいないので、遺体に添乗した

可愛がっていた恵美子や、生涯寄り添った 姉の松子に付添って貰いたかっただろうに、
最後の最後まで、ついに心を開くことが無かった嫁に(千萬子)付き添われての帰宅は
この人の孤独な人生を見るようで、その報われないさみしさに胸が痛んだ。
姑の重子の事は松子以上に「苦手」と言っている。まぁね、嫁姑だから・・・

【松子夫人の事】
松子にしてみれば重子だけでも「細雪」のモデルと云うことが絶対で、
ずっと一緒に暮らさなくてはならない状態は、天涯孤独の人であり実の妹でもあることで不本意ながら納得できたでしょうが、
そこへまた一人「千萬子」という者が現れたのですから、心底憎らしいと思っても無理からぬ事だと思います

私は谷崎を男性として意識したことも無く、自分が「瘋癲老人日記」のモデルだと思ったことはありません
確かに、これは私だなぁと思う情景も多々ありますが、作品は谷崎が描き出したノンフィクションです。

次々と来る手紙にも、谷崎の築いた虚構の中で投げられたボールを、巧く返すよう対応して来ました
態度としては(もろもろの事)喜んでいるけれど、さらりと受け流さないと、私がその気になってしまっては谷崎は気に入らないのがわかっていました
そうでなければ他の人には理解できない、この緊張した関係はこれほど長くは続かなかったと思います

その中には誰にも入り込む事が出来なくて、それがまた松子や重子には面白くなく、
二人から「颯子(「瘋癲老人日記」の老人の息子の嫁)は、あなたがモデルではない」と
かわるがわる何度も何度も言われました。

その往復書簡も谷崎からの怒りの手紙で突然終わる

40年1月5日の谷崎からの手紙(代筆)

谷崎が、孫を迎えに女中を差し向けるが
女中に留守番をさせて夫婦で挨拶回りにいったと言うじゃないか、
女中をやったのは、たをりを迎えに行かせたので、留守番をさせる為にやったのではない
孫がいつ来るかと思う老人の気持ちを分かってもらいたい」
いつに無い、お叱りの手紙で彼女は何故そんなに怒られなければならないのか、解らなかった

松子に「千萬ちゃん、たをり(娘)を連れては年始周りもできないでしょうから
                       1日預けてゆっくりしてらっしゃい」と言われていた。
                 
   

これを最後に手紙のやり取りはぷっつり、途切れる

しかしその後も千萬子夫婦の京都の家にひと月程、谷崎は松子と重子を連れて逗留している。


その後、谷崎は

「これから千萬子との交流は一切絶つ。」と松子に宣言した。


その年の7月30日朝、谷崎は亡くなる。79歳だった。

谷崎が亡くなった時、家人の誰からも連絡は来なかった

連絡をしてきたのは親しくしていた新聞社の人からだった。


その後、松子夫人は昭和66年2月1日に山王病院で亡くなった87歳だった。


【仏足石の事】

昭和38年
話している最中、突然谷崎がまるで「五体投地」のように目の前にばたっとひれふし「頭を踏んでくれ」と言った
 
その時の頭と足の裏が谷崎と接触した最初で最後の事だった

あれは谷崎にとって非常に性的なもので、私(千萬子)がうろたえたり、抱きついたり、泣いたりしたら、もっと違った展開になっていたのでしょうが、非常に冷めて冷静であった。

言われるままに踏んだのだが、片足を立ててぐらぐらしながら、もし、バランスを崩して、
うっかりギュッと踏みつけたら、谷崎は死んでしまうかも知れない。大変なことになる。
などと心配していた

このころはもう瘋癲老人日記を出版した後なので小説をあとからなぞった、というより
その延長線上にある次の作品の構想を考えていたのだと思います


そして、忘れられないのは37年ころ、ポツンと

「今、僕に3億円あったら、全部渡して一人になりたい」と言った

「一人になって若い愛人と一緒に暮らして、その若い女が男と愛し合うのを見たい」


 ・・・・・・・・・唖然!(@0@) ・・・・・・


しかし千萬子さんは
家族だけでなく、兄弟や親族など、多くの所帯を生涯すっと抱え込んでいるのは
だんだん老齢に差し掛かって来てしんどかったのでしょう
でもそこからこんな発想が出てくるのは谷崎ならではで、これは次の作品の構想とも絡んでいるはずです
と述べている。

千萬子さんも谷崎を心より愛していたのだなぁ。と思った

同時に彼の最高の理解者でもあり、

現実と虚構の間で戯れられる唯一の人だったのだと思える。


松子夫人とは全く違う形で彼女は作品の活力源ともなっていたのであろう。

この期間の谷崎はものすごい勢いで作品を発表している。

その彼女ときっぱり別れてから萎むように文豪の幕を下ろした。


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谷崎と深く関わった女性が谷崎に関して出版した本は皆、装丁が桜だ。

(267)【つれなかりせばなかなかに】瀬戸内寂聴

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1997年4月7日初版発行
中央公論社 単行本
200ページ 1100円

図書館で借りる

相も変わらず「谷崎潤一郎」関係です。 2時間くらいで読んでしまった。

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若いころの谷崎はおしゃれで「音羽屋」に似ていると言われ花柳界ではモテたという。

「最初の妻、千代子」と結婚したいきさつや佐藤春夫との「妻嬢渡事件」といわれる事の顛末が書いてある


その谷崎の「最初の妻千代子」をモデルにして書いたのが「蓼食う虫」だそうだ

小説の主人公は、優柔不断だが、まだまとも。 実際、谷崎が千代子にした仕打ちは酷いものだ

千代子に、「病に臥す自分の父親の看病をさせる」、という名目で父の家にやってしまい(弟夫婦が同居)

自分は千代子の妹、「せい子」に熱を上げ自分好みの女に仕上げようと企んでいた

「せい子」は、「痴人の愛」のモデルと言われた女性である

結局、谷崎は彼女に振られるのだが・・・


谷崎はこの時「妻(千代子)譲渡事件」の相手である「佐藤春夫」に
「おせいか、あれは君、猛獣だよ。しかし僕は家畜より(多分千代子の事)猛獣が好きだ
 我儘で生き生きしてる(中略)たとへかみ殺される惧れはあってもね。
 いやその惧れのためにもっと猛獣を愛するかも知れない。
  恐怖と云うものは一種の強い魅力だからね。」
そして、「自分は千代と離婚し、せい子と結婚したい。

     ついては、離婚後の千代子と鮎子(子供)を「佐藤春夫」が引き受けてくれないか。」という。

虫の良い話に、佐藤春夫は厭だとは思わなかった

谷崎の横暴に耐える千代子を愛し始めていたのである。


この「佐藤春夫」が、谷崎の妻、「千代子」を想って書いた詩が、本書のタイトル

'''「つれなかりせばなかなかに 夢とわすれてすぎなまし

  そもいくそたび濡れにけむ かの袂こそせつなけれ」'''である


谷崎は千代子に気に入らぬ事があると、ステッキで殴るのを、かなりの人が目撃している

こういう様を見て佐藤春夫はえらく千代子夫人に同情したらしい。


有名な秋刀魚の詩、「あはれ秋風よ 情(心)あらば伝えてよ・・・」の詩も春夫が千代子を想い作った歌だという

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巻末に「瀬戸内寂聴」が「谷崎千代子夫人」と「せい子さん」との対談が載っている

谷崎夫人はプライドが非常に高い人のようだ

話のやり取りを読んでも、あまり奥行きを感じられない

自分が優越感を感じる人の事には非常に饒舌だけれども、敵わないと思う人物に関しては口が重い。

谷崎は松子夫人を非常に大切にし、どんなにお気に入りの人物でも、

少しでも松子夫人の悪口を言うようであれば激怒し即刻首にしたという。


しかし、あの谷崎である。それなりの苦労はしたことだと思う

彼女に対して理解できないのは

最初の結婚生活で夫を末の妹(せん場で言うと「こいさん」)に寝とられている

同じ屋根の下で離婚するまで一緒に寝起きしており、その件に関しては騒動すら起こしてない

自然に一人の男を挟んで二人の女が同じ家に生活し妻としての実権はこいさんに握られていたらしい

離婚は谷崎が現れ恋愛関係になったからで結婚生活の破綻が原因では無い


そして谷崎と一緒になっても、今度はすぐ下の妹「重子」と一緒に生活をし、

「主婦が二人いた」と言っているような生活を送っている

実際谷崎は、この重子さんを松子夫人と同等と思えるくらいに大切にし、どこに行くにも三人一緒だったという

松子夫人は「たまには谷崎と二人になりたかった」とポロリと話したことがあったという

だからと言って重子を疎んじているわけではなく、どこか頼りにしているようでもあった

そのあたりの心理が私には理解できないのである。

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もう一人の対談相手の、痴人の愛のモデルと言われた「せい子」は結婚され「和嶋せい子」さんになられていた

91歳と云う、年齢を感じさせない若さと美しさ、華やかさがあり、

その記憶力の確かさに瀬戸内寂聴は驚かされたという。


会話もサバサバとして小気味がよく、 会話だけ読んでいても、実に魅力のある人である


この人の若き日、谷崎や芥川をはじめ周囲の作家達皆が彼女のファンだったのも頷ける。と寂聴は言う。


岡本太郎の子供の頃の事、

「鮫に顔が似てるから鮫太郎と呼んでいたら、母親の岡本かの子が怒っていた。」


       鮫!そう言われてみれば・・・(*^艸^*)

ま、せい子さん、谷崎の敵う相手ではなかったようだ。痛快!

(266)【倚松庵の夢】谷崎松子

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昭和42年7月24日初版発行
昭和42年8月30日再販発行

中央公論社 単行本
229ページ 480円


松子さんが
昭和10年谷崎と結婚、昭和40年に谷崎が亡くなるまでの事を

谷崎没後二年経った後、書かれた本である

「倚松庵」と云うのは谷崎が細雪を執筆したころ住んでいた家。



今まで何冊か谷崎に関しての本を読んできたが、本著が一番谷崎を感じられなかった

もちろん全篇が谷崎を想い恋うる話であるのだが、なぜか訴えて来るものが少ない。



谷崎に疎んじられながらも大役を果たした「口述筆記者」の伊吹和子さんの著書のほうが

谷崎像が掴め、胸に訴えるものがあったのはなぜだろうか?


今まで谷崎関連の本を読んだが、谷崎とは切っても切れない人が何人かいる

第一に、 影のように常に谷崎夫婦と行動を共にした松子夫人の妹「重子」

細雪の主人公「雪子」のモデルだったといわれる人だ

彼女は結婚し夫が北海道に転勤になっても同行せず、谷崎夫婦の家から離れなかった。と云う人であり、

松子夫人とは仲が良くいつ、いかなる時もそばにいた人である

松子夫人は「女主人が二人いる」と、瀬戸内寂聴に言っている。

重子は寝室も常に谷崎夫婦の寝室とふすま1枚隔てたところに寝ていたとか・・・大邸宅なのに。


谷崎が重子のことを大切にする様は異常で常に妻と同等。お墓も隣に作っている

重子は晩婚ながら一度結婚しているが結婚生活は短く夫は病死(だったかな?)している

なのに、彼女のことにはほとんど触れていない。


松子夫人の前夫との間に出来た息子の嫁「千萬子さん」

瘋癲老人日記のモデルと言われた方である。(これは、女中さんがモデルだったという説もある)


松子夫人は、この前夫の息子を妹重子の養子にしている

だから千萬子には二人の姑がいたわけである


最も身近なこの二人抜きでは谷崎は語れないと思うのだが。。。意地でも登場させていない(苦笑


まぁ、愛するご主人の話だから余計な人を割り込ませるわけにはいかないのは分かる



松子夫人は谷崎より芥川龍之介のファンで、芥川に会いに行ったら、そこに谷崎がいて

結局、目的の芥川龍之介には見向きもされず、女好きの谷崎潤一郎に見染められちゃった(笑

この時、松子夫人は京都の大店の跡取り息子に嫁いでおり、長男の嫁であり、また谷崎も妻子持ちだった


男女遍歴のある御両人だったが相性はすこぶる良く、生涯添い遂げた

読み物としては、面白みに欠けている。自己満足の本。というところか。

北海道からの宅急便

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17日に知人から電話があり、

「昨日アスパラ送ったから、うまくすれば今日着くかもしれない。それならば生で齧ってみて」

彼は法事で北海道に行くとは聞いていたが忘れてた



彼、今は現職を引退し、関東に住んでいるが、現職中は北海道への転勤が長かったし、

奥様の実家も北海道にあり、その関係から北海道へはよく行く

以前、やはり北海道からアスパラを送ってくれたことがあった


今、流通が良いので昔ほど収穫から時間を置かず新鮮なものが口に入るようになった

とはいうものの、その時のアスパラ、旨かった!普段食べているものとは全く別物といっていい。

その話を折に触れするものだから、今度こそ、送ってくれたのだろう


その電話があって、当日はベランダに出て洗濯物を干す時も、掃除機をかける時も、

ピンポ~ン!の音を聴き逃すまいと神経を配っていた

が~17日はついに届かなかった。 「あぁ、生でおいしく、は無理かな?」と思い

18日も今日は着くだろう・・・・19日、おかしいなぁ?

宅急便北海道からだって中1日で着くよね? 沖縄からトランク送っても、中1日あれば届いたと思った

そして忘れかけた昨日、20の夜やっと届いた
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伝票をみると「受け付け16日」道の駅からだ。4日もかかるの?

中を開けてみたらクール便の筈なのに、中のアスパラは新鮮とは言えないものだった

それでもこちらのスーパーで売っているアスパラのように切り口が乾いてしぼんでたりはしてはいないものの

中には一目見て時間が経ち過ぎていると思われるものもあった

それでもちょうど夕食時だったので太めのものを選び茹でていただいた。

「うん、やっぱりおいしいけど、甘味に欠けるし以前のときのものとは全く別だね~」

産地のせいかなぁ、鮮度なのかなぁ、あの数年前のアスパラの味が忘れられない。


こういう場合、おいしさが思い出の中でどんどん膨らみ、実際同じものでも、

「いやもっと旨かった」。となってしまう事が往々にしてある。
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もうすぐトウモロコシのシーズン、

やはり数年前、札幌大通り公園で食べた焼きトウモロコシの味が忘れられない



近所の人が道楽でやっている畑のトウモロコシがだいぶ育って来たのでもう直ぐ即売するだろう

毎年もぎたてを買って茹でて食べるけど、あれほど甘く美味しくはない。

  夢よもう一度!



 Σ(゜m゜=)ハッ!! なにを贅沢を云ってるんだ!?

                   この罰あたりめが~!☆(_ _*)☆\(`o'")コラッ

(265)【われよりほかに】伊吹和子

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1994年2月18日第1刷発行
1994年6月7日 第5刷発行
講談社 単行本
541ページ 3900円

副題が谷崎潤一郎最後の12年

アマゾンで購入


         【著者のプロフィール】

1929年京都生まれ。 京都大学文学部国語学国文学研究室勤務を経

1953年谷崎潤一郎「源氏物語」の原稿口述筆記を担当

引き続き中央公論社に入社。

  と云う経歴の持ち主で、頭脳明晰、真面目、忍耐強い方である。


本書はずっしりと重みがあり美しい装丁だが、この種の単行本として、3900円はかなり高価である

にも拘らず、4か月足らずで5回目の増刷

平成になってもいかに谷崎の人気が衰えないかと云う事を如実に表している


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谷崎から依頼されたのが、「口述筆記者」と云うことだったが

谷崎は「秘書」的なもの。ともすれば「かわいい女性」として氏を楽しませてくれる人。

という観念があったようである


谷崎の周囲には、出版社が差し向ける有能な男性がいたが、彼らとは全く区切って考えていたようである

ともかく滅茶苦茶に我儘で気難しい谷崎に気に入られる人などそうそういる訳も無いのだが

そんな事とはつゆ知らない彼女は、お嬢さん育ちでもあったので

「だからお嬢さん育ちはダメなんだ」と言われぬよう歯を食いしばって認の一字、

謂れのない叱責を受けても耐えた。


が、彼はそれもまた気に食わない。 相性が悪いのである

瘋癲老人日記のモデルだったといわれる息子(夫人前の夫との子)の嫁に

「伊吹さんも少し気に入らないことがあるので、いっそ若い児をと思って雇ってみたのですが

                                矢張り子供では駄目ですね」
と手紙に書いている。


ある日口述筆記をしている最中、ふと谷崎が席を立って行ってしまった

珍しいことではなかったので、じっと待っていたら、戻ってきたなり仁王立ちになった谷崎がいきなり
「あなたね、もう明日から来ないでよござんす。今すぐ東京に帰ってください」

何かお気に召さない事でもしたかと思ったが心当たりが無く、従って詫びようもない

「なぁに、あしたっから新しい人が来るんです。今度のは、あなたなんぞより
       そりゃずっと優秀なんだって。ああ!今度こそいーい人が見つかりました。
             もう大丈夫です、あなたに手伝って貰うことはなーんにもありません」

原稿用紙をかたずける暇も与えず追い立てるようにされた。
谷崎はこの後、嶋中社長(中央公論)に「あれは もう寄越さないでほしい」と電話を入れていた

しかし嶋中社長の予想した通り、3日後

谷崎が、言い難そうに、「丸善で消しゴムをひとつ買ってきてください」、と社の彼女に電話をかけてきた

もうたくさん、まっぴらだと思っていたものの、社長からの口添えで仕方なしに

東京の丸善に行き消しゴムを一つ買って熱海の谷崎の家まで届ける

当たり前のようにまた口述筆記が始まる。何事もなかったように・・・・



このように彼は彼女のプライドをズタズタにした上、小間使いのごとくこき使う。


谷崎の理想の秘書とは、多分、

まず美形であり、肌と足が美しく、気が強く、云うなりにはならず、

頭脳明晰で感がよく、「バカ」になれる若い女の子。


伊吹女史は「筆記機械になりきった」と述べているが、そうでもしなければ勤まらなかったのであろう


しかし谷崎は彼女に、未熟さや、可愛さ、柔軟さを求めていたのでは無いだろうか?

もちろん頭脳明晰でなければならない


そんな人がいたとして、雇っても3日も持たずに皆辞めてしまう


女中(当時の言い方)の中からお気に入りの子を仕込もうとするが、夫人から文句が出る。

なかなか思うようにはいかないのだ。


彼女は
先生は周囲のものすべてを小説の素材にしていた。
文学的感興と異質の詩情や素材になり得ぬものは、自ら目にも入ってこず無縁のものとして切り捨てられていたのである
女性もまた同様であった。
と述べている

確かに、女中さんは勿論のこと、飼い猫や犬に至るまで小説の素材になっている

だが唯一「秘書」だけは素材にされていない。

素材に出来ぬ人を側に置きたくない。という拒否反応と、

その私でなければ仕事が進まないという、どうにも出来ない矛盾に苛立っておられたのだろう。

と彼女は述懐している。


京都生まれ京都育ち。それもの国文研究室にいた彼女に谷崎は、

古い京都弁についてかなり強力を得ていたことは確かだったのだが


そんな彼女に谷崎は、「京都の人間の嫌いなところを並べ立てた短文」を書き

その場で彼女に声を出させて読ませたことがあった。二回も繰り返して。

文章を声を出して読ませた事は後にも先にもその1回だったという。

谷崎を取り巻く女たちは、女中さん以外は殆どが京女なのだけれど。。。。


ことほど左様にいやな爺である。

「今 東光」は彼女に
どうだい、あの谷崎ってぇ爺は、なかなか難しいだろ?だけど今は随分おとなしくなったんだ。
昔はもっと激しい人だったんだよ。俺だってどんなにびくびくしたか知れないんだけど
お前さんも、そんな思いをしてるんじゃないかい?あんまり気ぃ遣いなさんなよ
と慰めている。

これほどまでに苦労して勤めていた彼女の給料は普通のサラリーマンよりかなり安かったそうだ。

彼女は必ずしも谷崎文学が好きな訳では無かった。という。


あとがきに

谷崎没後、「どうして谷崎さんのことを書かないの。書いてよ。」と三島由紀夫に言われ

何を書けば良いのか、人が先生の何に興味を持っているのかがわからなかったが、

「何って、全部だよ、日常茶飯事の。谷崎さんが朝起きるとお早うと云って、夜には布団を着て寝るなんて
こんな面白いことってある?あなたそう思わないの?」といって三島先生はからからと笑れた。


書き始めたのは三島由紀夫が逝ってから約20年の月日が流れていた(新聞に断続的に発表されていた)



タイトルの「われよりほかに」は、谷崎の「雪後庵夜話」の冒頭の

我といふ人の心はただひとり われより外に知る人はなしより。

2011年6月五十肩

気が付いたら、50肩になっていた(T_T)

もう2カ月以上になるか?

「アレ?」と思ったらだんだんひどくなり、完全に50肩になっていた

8月・・・益々酷くなる (T_T)(T_T)



胃がおかしいな?と思ってから治ったり始まったりの繰り返し

この前の前、邦ちゃんと会った時、既にそうだったからもう半年以上になるのだろうか?

このところはかなり元に戻ってきて食べられるし食べた後ももたれが少ない。

この調子で治るといいんだけど・・・


昨日、M治さんから電話があり、「北海道からアスパラを送った」 とのこと

20日に帰郷するという事だった




最近、山の本と、谷崎純一郎がらみの本に凝っている



震災以降、どうも涙もろくなった

新聞を読んでは、ほろり、テレビを見てはほろり・・・・年かな?

自分のことで泣くことはほとんどない



平穏で平和な日々、夫に感謝


姑はいよいよ言葉が出なくなってきたが体はガッチリ

しかし、顔をしかめるようになり1年くらい経つだろうか?

どこか痛い?と何度聞いても首を横に振る

顔を歪めるのは何故だ?どこか痛いのならば可哀そうだ。。。。

姑よ 姑よ  天敵が元気でないと、寂しいではないか

姑は、、、、平和でも平穏でもない。
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